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鬼門の棒針編み

 きのうの投稿に書いたハマナカピッコロの奉仕品セット全24玉は、色番と重さのメモをつけてパッケージの袋にまとめ直した。
 こういう透明な袋に入っていれば在庫を探しやすいように思えるがどうだろう。同じサイズの袋に詰めれば、座布団を重ねるようにして押し入れに積み上げることも可能なのでは? そのうち試してみようかな。

 糸がこんな届いたからにはさっそくモチーフを編みたいところだが、現在はレース編み祭りの真っ最中。その原因はポロシャツに取りかかるのを少し先の日付に決めたことだ。
 「仕事がくそ忙しいなかでわずかな余暇を棒針編みでイライラすることに費やすのは非現実的」と潔く認め、期日まではポロシャツを放置してもいいことにした。そしたらまるで翌週から気乗りしない仕事の予定が入っていたのが「開始はいったん4週先に変更」と云われたときのように気分が晴れた。

 そして思った。「しばらくレース編み放題だな」と。
 いや「好きなだけレース編みができるぞ」だったかな。まあ、そんな感じ。

 もちろん、ポロシャツを棒針で編むというのは誰かに強制されたわけでもなく自分で決めたことだし、中止する気もさらさらない。
 なのに編み始めを遅らせると決めたらなんだか安堵してしまったのは、「棒針で何かを編むとややこしい問題が持ち上がる」ということが幾度も繰り返された過去が多分に影響している。特に、どれだけ調べても意味不明でキレ散らかした経験が根深いのだろう。ある編み方について複数の資料にあたったらすべて違っていて、しかもその大半が明白な誤記だった、なんていう事態に遭遇しても平静でいるのは難しい。

 悪いのは棒針編み自体ではない。それを説明している資料(本や編み図)が悪い。そんなことはわかっているが、だからといって嫌気がささずに済むかというとそれは別問題だ。
 たぶんこれは自分の性格というか行動様式というか思考法というか、とにかく「自分がこういう人間だから」がすべての原因なのだと思っている。たとえば図と説明が一致しないことに気づくのも、ぼんやりと図だけ見て済ませればいいのに、きちんと説明を読んで図に照らし合わせて理解しようとする行為ゆえ。

 意識的にそうしているのであれば、図だけ見て文字を読まないようにするのは難しくないだろう。しかし、完全に無意識で両方見て読んでいるのだ。子供の頃からこうだから矯正不能だな。
 つまり死ぬまで棒針編みには困難が伴うわけか。履き口から編む靴下は最初からすんなり理解できたんだけどなあ。それ以外のものになると途端にハードルが上がる。きつい。棒針編みこそ習いに行くべきか。



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