編集

「自分はこうだ」の恐ろしさ

 「今時の若い者は」といえば年寄りの常套句で、こう口にするようになったら年寄りの仲間入り、というのはたぶん今も昔も変わらないだろう。いつだったか出土した木簡か何かにも「今時の若い者は」的なことが書かれていたんじゃなかったっけ。ちなみにわたしは自分が10代の頃から似たようなことを思っていたので、現代の否定は高齢者特有の思考ではないと信じて疑わない。
 なんでなのか、気がついたらいつも「現代ぬるいな!」とイライラしていた。根性なしばっかりでつまらん、と。まるで明治生まれのジジイだが、自分自身に根性があったかどうかは怪しい。腹が据わっていたのは間違いないが、それが根性かというと違うだろう。つまり、辛くて嫌なことに耐える根性はないが、そこを逃げ出して笑い者にされるとか貧しい暮らしをするとかの覚悟はあるという。そんなわけで転職回数は2桁。ただし20回まではない……はず(確か)。

 頻繁に職を替えることでいろいろくそみそ云われたりもしたが、あるとき「でもそれで毎回転職先を見つけられたってすごくないですか」と云われた。そういえば確かに、いちばん長く仕事が見つからなかったのは大学を出た直後の1年間だ(氷河期世代)。あとはだいたいすぐ見つかり、特別な技能もないし慢性的人手不足の業界でもないのに、まあ、よく考えたら変だなこれ。
 ともあれ、その言葉で「そう考えればいいのか」とびっくりした。常々、あらゆることには相反する捉え方があると認識しているというのに、自らの転職回数については一種の恥だとしか捉えていなかったのである。
 この「自分は仕事の続かない根性なし」という認識は、他人に思われるならまあどうぞお好きにという感じだが、自分でそう思い込むことは危険だ、と思う。

 思い込みの何が危険かって、自分自身をひとつの枠組みにはめ込んでしまうことだ。「自分はこうだ」と思っていたら実際そういう人間にしかなれない。言霊とは本当にうまく云ったものだと思う。定義づけのオバケに取り憑かれてしまうわけだから。

 40代になってから何度か転職したときにわたしが思っていたのは「まあ何かしら見つかるだろ」だった。もちろん、自分の性に合わない営業とか販売とか電話の仕事は選ばない。だってそんなのいくら給料が良くたってすぐ耐えられなくなって辞めるじゃん。
 失業が長引かない(あるいは失業しない)だろう、と考えられたのは、たくさんの転職経験を経るうちに自然と構築されてきた自分なりの方策があるが故だった。
 その方策をもとにやったのは、自分の数少ない得意なことを整理して明確化し、過去に賞賛された仕事も分析して説明し、しかし面接の場での話は失礼にならない程度に楽しく会話したこと。元来はかなりの人見知りで他人とのコミュニケーションが苦手なのだが、話していて楽しくない奴が採用されるわけがない。だから仕事に慣れて職場の人とも気軽に話せるようになったときの感じで、初対面の面接官と話をした。

 こういった内容のことをべらべらと話すには、まずは自分のやってきたことをきちんと認識する必要がある。
 自分の手柄を自慢するのは嫌いだが、自分のやったことがどう会社に貢献したかを分析することはできる。学校を出て1年間仕事がなくて「社会に必要とされていない」と強く思っていたが、非正規の仕事で食いつなぎながらいろいろできることが増えていったのである。良くも悪くも社会常識に欠けているおかげで他人が躊躇するようなこともためらいなくできるし、気がついたら仕事ができる人認定(これは迷惑な話)。

 ということを面接に向けて延々と考えて整理していれば、嫌でも自己認識は変わる。社会に必要とされていなくて仕事が見つからなかった奴が、「まあけっこう役に立つ方じゃね」という枠に自分を突っ込むことになったわけだ。
 自分を定義づけ、敢えて縛ればいい場合というのは当然ある。バカとハサミは使いようと云う言葉の通りだ。

 けれどももちろん、バカとハサミなので取り扱い注意なことに変わりはない。だからわたしは基本的に、自分の気に入っている性質のみを自己認識としている(良いものだけでなく悪いものも)。そうでないことは、たとえ自分に備わっていることだとしても目を背け、定義づけないようにしている。いや、ちゃんとそいつを叩き直せればいいんだけど、簡単にできるもんでもないし。

 本当に、じっくり考えてみるとほんの些細なことでも自分で自分を決めつけて台無しにしてしまっていることはたくさんある。ちょっとしたことであれば改善すべく努力するのだが、死ぬまでこれかよと思うとなかなか気が重い。

 で、ここまでが昨日の続きの前置きなのだが、「棒針編みは難しい」というのはまさにここまで長ったらしく書いてきたうしろ向きな定義づけではないか。

 なぜ急にこんなことに気がついたかというと、半袖プルオーバーから逃避してかぎ針でグラニースクエアを編んでいたからだと思う。
 理由はわからないが、わたしはかぎ針編みで難しいと思ったことがほとんどない。「ほとんどない」というか、実はない。あったかもしれないけれど記憶にない。編み図も、去年一度だけ「これはどう読めばいいのだろう」と悩んだことがあったが、最終的にきちんと編めた。

 これはもしかして、「かぎ針編みが難しい」という思い込みが皆無だからではないか。

 と頭に浮かんだところで、それに引き換え棒針編みは「難しい」しか云ってねえな自分、と思った。
 表目と裏目だけで構成されている模様編みが難しいって、いやそれ表編みと裏編みしかやってないし。
 簡易編み図がわけわからんって、でも最終的に解読して編んでるだろうがよ。しかも二度目、三度目だと解読のスピード速いぞ。

 ……こう冷静に考えてみれば、難しいと連呼するほどのことでもないじゃないか。

 と思い直して、努めてへらへらと気負わずに棒針を持ったところ、苦手だと思い込んでいた伏せ目もなんともない。変な力も入らない。「まだ一段おわんないな」と思うこともない。数日前はもう片方の袖の同じところでうっすらと苦行かよなどと思っていたのが嘘のようだ。
 思い込みは本当に怖い。思い込みで実際にいろいろ変化する自分も大概だが。