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好き勝手にやるのは楽しい

 編み図と格闘してキレたりしていたせいなのか、勘で適当に編んでいる謎の大袋が楽しい。延々とこま編みばかり、増減もまったくなくて飽きそうなものなのに、今回は苛立つどころかひたすら気楽に編み続けている。
 なんでだろう、と不思議に思いながら考えていたら、完成させる義務がないからだと気がついた。

 これまで編んできたものはすべて自分で選び、編むと決めたものだ。誰から頼まれたわけでもない。
 でも、無意識のうちに「完成させなければならない」という思いがあったのだろう。そして自分の場合、そう思った時点で「義務」という認識になっていたのではないか。自分に対する義務というか、「おまえ編むって決めたんだから最後まで編めよ」という内なる声があるというか。

 なんだか自分で罠を仕掛けて自分で罠にかかっているみたいな事態だが、編んだものすべてに「誰かがつくった編み図」が存在するのも少なからず関係しているのだろう。
 たとえて云うならそれは問題のようなもので、問題が出された(自分で選んだだけだが)のであれば解きたくなる。解けないのはくやしい。どうにかして解きたいからいくらでも考える。そんな具合に、編むと決めたものを投げ出すのが難しい性格なのだろう。

 実際、このブログに載せたもので投げ出したものは、いずれも編み図通りに編む類いのものではなかった。いつか続きを編もうと思うことすらなく、駄目だこりゃと思ったら躊躇なくほどいている。その潔さってどうなんだと思わないでもないが。まあ、クソ真面目でひたすら適当という相矛盾した性格なので、しつこいのにすぐ投げ出すというのも自分にとっては普通なのかもしれない。厄介だが。

 とにかく、思いつきで適当に編んでいる謎の大袋。完成しなくてもいい。なんか駄目だなと思ったらほどけばいい。大変に気楽である。そして楽しい。意味わかんねえよクソと思いながら編み図と格闘して編む楽しみというものもあるが、フリーダムに雑で適当に流れにまかせて編めるのは楽しい。



 などと下書きをしておいたのに。
 完成した。
 「完成しなくてもいいのだ」と書いておきながら完成したという……まあ、楽しいから完成したのでいいか。いやそもそも完成させたくないわけじゃないんだし。

 マチ部分をたたむとこんな感じで、
 マチを広げたらこうなる。
 もはや古くさいのか洒落ているのかよくわからない。色合いもいいんだか悪いんだか。でも「こういうものだ」で納得できるから極度におかしいわけではないだろう。たぶん。
 持ち手は適当につけた。
 裏地が必要だと思ったけれど実際どうなんだろう。極端に重いものを入れたら駄目だというのはわかるが、どこまで耐えられるのか。外に持ち出すものではないので様子を見ながら必要に応じて補強すればいいか。

 なんとなく肩にかけてみたら、おや、なかなかいいぞ。
 なかなかいい大きさで、軽さで、もしかしてこれきちんと補強して外に持ち出してもいいんじゃないか。昭和感がぷんぷんのかぎ針バッグなのにこれはアリだと思ってしまった。最近、自分のセンスがますます壊れてきているのを実感する。