昨年の終わり頃はあれこれと編み散らかしてみても「こっちが終わったら次」という感じだった。そもそも編み散らかそうと決めたのは、すべてを並行して編み進めていき、結果として連日のように完成品が仕上がるという事態を求めてのことだったが、まあ、寝言は寝て云えという結果だったな。
性格的に一点集中、読書なんていつも1冊に没頭するからしおりは1枚で足りる。だからそんな器用な真似などできるわけがなかった。
だが裏を返せば、迷うことがない。編みかけがひとつであれば、編み物をしたいと思ったらそれを編めば済む。問答無用でそれで済む。気が乗らなかったら他のことをするし、どうしても何か編みたいのであれば目的もなくグラニースクエアを編めば済んだ。
もしグラニースクエアにも気乗りがしなければ靴下。靴下だけは惰性で編めるし、溜まりに溜まったソックヤーンの消費に貢献できるという利点もある。そしてわりと早く編み上がるし、気分転換にもなる。
だというのに、最近はどうも様子がおかしい。
昨日まで思いつきでフリルのかたまりを編んでいて、気がついたら週末が終わっていた。せっかく時間を存分に使える休日だというのにショールもプルオーバーもブランケットも靴下も手付かず。
編んでいたのは使い道のないフリルのかたまりで、しかもそれにしたって、進捗率4%にも達しない段階で中断。まあ、全体の目数が9万足らずのうちの4%なので、そんな得体の知れない代物をいつまでも編んでいるわけにもいかない。段数だとあとたった3段ではあるのだが。でも目数だとあと8万なんぼ。
そういう泥沼で週末が過ぎてしまったのかと思うと、とっとと他の編めよとさすがに思う。わたしは基本的に「使いたいから編む」というスタンスだ。
スタンスというとしゃらくさいが、要するに着たい・使いたいという欲望が動機。「あの服かっこいい」といって札ビラきって衝動買いをする人と同じように、「この服かっこいい」けど売ってないから編むか、とただの物欲が推進力になっている。編みたいから編むというより、欲しいから編む。売ってないから編む。どう見ても物欲。
だから編み散らかし始めたのも、連日いろんなものが完成する、つまり毎日新しい何かが手に入る、という自分の懐事情では実現し難いことを編むことで実現しようとしていた、とも解釈できる。というか絶対それだ目的は。
仏教徒というわけでもないのに「煩悩なんか死んでも消せない」と絶望しそうになる。
ただ、編み物は確かに物欲を満たすためではあるのだが、自分のための時間という側面もある。自分の物欲を満たすという目的に突き進むための時間というわけで、仕事と違って金にはならないが物にはなる。ついでに達成感もある。達成感なら物欲よりかは幾分ましな気がする。
それでも結局のところ物欲であることに変わりはないのだが、少なくとも「こんなものを編めた」という満足感は既製品を買うことでは得られない。
だからフリルのかたまりにしたって、そんなもん編んでどうするんだという代物ではあるが、1段が数百、数千、数万という常識外れなものを編んだという変な達成感はある。子供が空き缶を10個積み上げてやってやったぜと思うのと似たようなもので、自分の知りえなかった能力の実現が目的になっている。
これは物欲ではなくただの満足だ。達成感という名の満足。傍目には意味がなくても、自分はこういうこともできる、という満足。意味はないが満足は発生する。
となれば、それはそれでいいじゃないかと自分を正当化してしまうのだが、まあ、別にいいのかもしれない。コスパだのタイパだのなんとかパとかいう効率を追求してそれで生じた余剰を有効に使えないよりは、無意味を達成して明確な満足を得る方がよほど意味がある。合計8万なんぼのフリルのかたまりを編み上げた暁には、どんなでかいセーターもブランケットも屁の河童だ。
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