まだ片づけの話。
この丸い缶に入っているのは靴下を編むときに使うツールだ。試着するとき用の棒針キャップやダルマピンなど、こまごましたものはここにまとめた。本当は編み針やとじ針と一緒にしておけばいいのだろうが、これだけでもだいぶ散らかり具合が違う。
ということがやればできるのに、なんでこういうことを他のものに対してできないのだろう……「何をどうすれば合理的か」を考えればまともな答えを出せるだけの頭はある。でもそれを常にできるわけではない。答えが出せないのではなくて、考えることをしない。「とりあえずこれでいいや」で思考停止するから散らかりまくるのだろう。
ピンやマーカーを入れておく箱を紙袋(とりあえず編み物に関する小物を入れておいた袋)から取り出したら、こんなものも袋から出てきた。
ああ……セーターとかを編むときに目印に使っていたやつだ……一緒に入れてしまおう。用途は同じだ。 以下、話の続きではあるが編み物のことは微塵も出てこない余談。
無味乾燥な付箋ではなく、ちょっとかわいい付箋(ミスタードーナツの昔のノベルティ)を無意識のうちに使ったことで、そういえば、と思い出したことがある。
介護施設で働いているとき、業務のひとつに「入居者様の居室の整理整頓」というのがあった。介護をうける人が安全に暮らせるよう環境を整える仕事である。散らかすのが得意なおまえにできるのか、と思われそうだが、ちゃんとできた。細かいところまで気がついたり、もしかして自分は整理整頓が得意なのではと錯覚するくらいまともにやれていた。
なのに自分の部屋はいつまでも片づかないのだが、介護の仕事を自分に適用したらいいのでは?と数年前に思いついて何度か実践したことがある。つまり「自分という名の年寄りの面倒をみるつもりで居室(自分の部屋)を整理しよう」という発想だ。
(※「年寄り」とか「面倒をみる」などと書いたが、自分が相手だから雑に表現しただけで、普段は「高齢の方の生活をお手伝いさせていただく」みたいに表現する)
で、まあ、……さすがに言葉は発しないが、脳内で自分という名の婆さんと会話しながら部屋を片づけているという、非常におかしなことをやっていた。自問自答ではなく、片づける意欲がないがモノの収納場所にはこだわったりするめんどくさい自分という名の婆さんと会話しながら片づけるのだ。
ほんとこれは傍目には無言でやっているけれどあんまり見られたくない、と思う。
だがこれは非常に効果てきめんでもあった。どうやらわたしは「自分のことはできなくても他人のお世話はできる」という不思議な能力があるようだ。
もちろん脳内の婆さんは「でもどうせまた使うしここに置いといていいじゃん」とかいろいろ反論するのだが、自分が相手であるがゆえにどう説明すれば相手(自分)が納得するのかわかるし(わからないこともあるが)、抵抗の理由がわかれば別の解決策を見出せるし、なんか書いてて気持ち悪いような気もしてきたがとにかくこの方法は有効だった。
自分という名の婆さんのお部屋の片づけ、という体裁をとることがなぜ効果的だったのか。
この状況では相手が自分といえども他人なので、「とりあえず適当に」が起こらないのだ。
自分の部屋の片づけでは「とりあえずこっちに移動しておこう」と、問題を先送りにするようなことを平気でやる。だからいつも部屋が乱雑になる。だが相手が他人であれば「きちんと」片づけようと思うし、箱に何が入っているか明記しておいた方がわかりやすいだろうと配慮できるし、無地よりもちょっとかわいい付箋の方が気持ちが和むだろうなとか、思いやりを伴う行動ができる。
ああそうか……とこうやって書いてみて納得した。
かつて、ごみが室内で層を成したり、ベランダにまで不要物があふれているような、すさまじく部屋が汚い状態が「セルフネグレクト」と表現されていたことがあったが(今でもこの表現は使われているのだろうか?)、そのときは単純に「自分の面倒すらみなくなった状態」くらいに捉えていた。
が、わたしが自分を「自分という名の婆さん」という他人として捉えるときの心の動きを解釈してみたら、他人に対して思いやるように自分を思いやれていないことがわかった。つまりわたしも少なからずセルフネグレクト状態なのだろう。
もしかすると片づけに限らず、たとえば「他人のミスは許せるが自分のミスは何があっても許せない」という人も一種のセルフネグレクトと呼べるのかもしれない。自分を思いやれない、という意味で。
いや、ちょっと待て、ミスのたとえ話は自分にも当てはまるような……いや、他人のミスは「他人に何も期待していないから許せる」のだし、自分のミスは「気をつけていればミスはしないと自覚しているのにミスしたから許せない」のだから、これは別の話か。……人間性の問題か……
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