こんな量ひとりで年末までに終わらせるって無理じゃね?とうっすら思いながら連日の長時間労働に首を絞められ続けて息も絶え絶えだったわけだが、木曜から急に加速度的にペースが上がり金曜の定時前に完了。「納期に間に合わせるために前倒しで必死こいたら急に手持ちの分がなくなる」現象が再現されたということか。
つまり相変わらず自分のペースが読めない。読めないが、「作業期間の半分を超えた時点で4割くらいしか終わっていなければ、間に合う」というのはわかった。たぶん後半でペースが上がるのだろう。
……「編み始めるまでが大変で、そこを超えたら難しくない」というのと似ているようにも思える。実際、今の仕事も基本的に前例や手本となるものがない状態で丸投げされるので、解読したり作成のルールを一から決めたりという作業がまずある。ここが苦しい。誰かが決めてくれたことに従うだけというのは本当に楽でいいなと思う。
まあ、編み物は既存のルールがあるのにそれを知らないから調べなきゃいけないだけなのだが、どこを見ればわかるのかがわからないのがきつい。要するにどっちもどっちだ。きついし大変だということだけは同じ。
で、金曜に定時でパソコンの電源をたたき落としたあとはまずは脳の洗浄のため読書。本当はガチガチに堅苦しい哲学書とかがよいのだが、なにぶん仕事で頭がバカになっているので理解できそうにない。
そんなわけで、芥川がほどよいだろうと。どうも人格はそれほどお堅くはなかった気配もあるが、文章はまあ適度にお堅い。ものによっては容赦ないというか、「ここにはこの文字しか置けない」という類いの文章だ。そこまで圧倒的ではなくても、たいていの作品は他の表現に代えることを想像させる余地がない感じ。これでいい、と思わせる。
そんな作品のどれを読むか迷いに迷い、結局、なぜか「玄鶴山房」という近代文学らしい不思議な作品を読んだという……。登場する各人の深い思いをあんなに詰めたのにあの短さだという点ではさすがというかなんというかなのだが、物語としては正直、なんでこんな話なんだろうというもの。
近代文学はそういう作品がけっこう多い。何を伝えたいのかよくわからなくて、かといって特別な出来事が起こるわけでもなく、まあ現代ならどこの出版社からも門前払いされるだろうなという内容だ。
もちろん、そういう作品のほとんどは「なんだこれ」で片付くものではない。物語に入り込めた瞬間に急にすべてがわかる。ただ文字を追うだけでは駄目だということだ。要するにわかりにくい。でも発表された当時はそれが普通だった。つまり、読者の姿勢が変化したことで作品の理解に支障が出たというわけだ。
戦前の読者がすべて能動的な読み方をしていたわけではないと思うが、そもそも能動的・受動的ということ自体が現代と違うのではないかと思う。たとえば「受動的」を「川に落ちて、もがくことなくただ流されている」というのが現代であるとすれば、戦前は「川に落ちて、もがくことなくただ流されている、という状態を認識している」という具合に、何がしかの差異があるのではないか。
まあ、戦時中は海軍で「これだけ読めば戦は勝てる」などという題名の本が配られたりしていたので、昔だってそれなりに軽佻浮薄というか考えの浅い空気はそこかしこにあったようだが。
ともあれ、芥川で脳のごちゃごちゃを一掃して、やっと編み物である。最後に編んだのがいつで、何をやったかぜんぜん覚えていない。
袋編みで編んだ袋にかぎ針編みで持ち手をつけるだけ、と中途半端なところで終わっていたものを完成させた。持ち手は一体型なので困難は何もない。手本がないが勘でどうにかできるのですぐできる。なのに放置していたという。 ほんと、適当にこんな感じでというノリでちゃんと持ち手になるのに、なぜすぐ終わらせなかったのか。 平たい状態で筒に編めるというのが袋編みのいちばんの利点だろう。だが、だからといって簡単というわけでもないようだ。
袋の手前側と向こう側の境目(つまり袋編みをするときに棒針の両端にあたる部分)が、見事にゆるんだ。 使用に支障はないが、見た目がなんだかあれである。布で袋を縫ったときの縫い目のようなものと考えればいいのだろうが、これってどうにかできるんじゃないだろうか、という気がしてならない。
コメントを投稿
別ページに移動します