どうしても靴下がゆるい。寝て起きたらぴったりに!という奇跡は起きてくれない。半年くらいかけて極度に太れば足がむくむくに太くなってジャストサイズになるかもしれないけれど、靴下のためだけに健康寿命を損ねる真似はしたくはない。適度に太ることは必要だけれど、今の身長のままでこの靴下をぴったりにするには……どれだけ体重を増やせばいいのか。
自分を靴下に合わせるのではなく、やはり自分で編み直すのが早道か。
だが万にひとつ、洗濯機に突っ込んだら縮んだり……してくれるかどうか怪しいな。でもとりあえずいっぺん洗おう。
それで駄目ならマチの始まりまでほどいて編み直しだ。マチの拾い目がゆるかったのが原因だと仮定しているが、それでも駄目ならぜんぶほどいて目数を調整するなりなんなり考えよう。
ゆるい靴下の問題はそれでいいとして、次の靴下をどうするか。
編み直す可能性が高い靴下があるのに別の靴下を編もうとしているのは何故なのか疑問だが、「次はどうしよう」と思ってしまったのだからしょうがない。靴下を編むのは習慣みたいなもので、ソックヤーンの在庫も相変わらずで、編まない理由が今のところない。ひとつ編んだら次も編む。
それでいろいろ考えあぐねて、これ。
ついこないだリストウォーマーを編んで「ゴム編み止めめんどくせえ」と痛感したのに、よりにもよって初・つま先から編む靴下。編む前からめんどくさい。でもゴム編みはゴム編み止めをしなければ気が済まない。しょうがない。
この靴下は底に三角形があるという変わったタイプ。
この三角形がなんの役割を果たしているのか謎なのだが、だからこそ編んでみたい。
ちなみに今回は編み込み模様ではなく、いつもの段染めソックヤーン1種のみで編む。なんでって、よくわからん言語を解読しながら初めての編み方をするのだから、まずはなるべく簡易な手段をとった方がいい。
パターンにある編み込み模様は、全体の編み方の勘どころを掴んでからでも遅くないのだ。というか絶対その方がいい。英語だし。万葉仮名で書いてあるのとどっちがマシかと問われれば即座に「万葉仮名で書いてある方がずっとマシ」と答えるレベルで英語がわからない。それだけでもう難関である。
おまけに、編みながら間違いなく「これって履き口から編み進められるもんかな」と考えるはずだ。そんなことを考えながら編み込み模様を編むなど正気ではない。わたしの頭ではできない。
そうわかっているのにつま先から編むのも妙な話だ。でも底に三角形がある履き口から編む靴下を知らないのでしょうがない。
ともあれ解読。
紙の上に表音文字しか並んでいないのが辛い。
ここから余談。編み物ぜんぜん関係なし。
NHKオンデマンドで目についたドキュメンタリーをひととおり観てしまったので、いま観ているのは「100分de名著」。
実はこの番組の存在を知った当初は、絶対に観たくないと思っていた。
というのも、偶然見かけた民放の番組が原因。名作を紹介しながらクイズも出題されるという内容で、「宮澤賢治の『銀河鉄道の夜』に出てくる歴史的事件は何か」というクイズがあった。
これは、ジョバンニたちが列車内で出会う子供たちがタイタニック号の沈没事件で亡くなったことを連想させる描写をクイズにしたようなのだが、わたしはその描写のところに出てくる「僕はその人のさいわいのために何ができるだろう」という意味の文章がとても美しいと思う。実際、作品全体が美しい表現に満ちていると思う。
なのにテレビは「正解はタイタニック号の沈没事件でした」で話がおわり。
それでキレた。
信じられない。そのあとの美しい文章には触れずおしまいってバカかよ。名作の紹介などと銘打っていても実際は作者と題名だけ紹介して終わりにしてるようなもんじゃねえか。あほか。文学史や文学案内の本の方がずっときちんと紹介しているのにだからテレビは嫌いなんだ。
などなど、猛烈な勢いで罵詈雑言を脳内に満たしたことがあるため、100分で名著の紹介なんかクソだとしか思えない。その100分で本を読む方がずっと意味がある。
と思っていたわけだが、その考えが変わったのはスタニスワフ・レムの『ソラリスの陽のもとに』が取り上げられたときだった。東欧文学好きなら誰でも知っている沼野充義がゲストに出るというのだから、番組の主旨はともかく話は聞きたい。
それで観てみたら云うまでもなく大変におもしろく、更に数年後にはヴァーツラフ・ハヴェルの著作がテーマだったのでテレビの前でノートをとりながら観た。そこで出た結論は、「これは大学の講義みたいなもんだ」というもの。
そんなわけで、ちょっと関心がある程度の作品がテーマの放送回を日々ざっくり観ている。底なし沼の底を探るような辛い在宅仕事中も再生しっぱなし。話半分くらいにしか内容を聞けなくても、少なくとも頭半分は論理的または美的世界に触れられているので、辛い仕事もなんとか耐えられている。というか、そうやって脳の一部をまともにしておかないと辛すぎて働けない。
で、もちろん100分の解説だけで満足できるはずはない。存分に読んだ本であっても新しい読み方ができるので、観れば観るほど読みたい本・読み返したい本が山積みになる。坂口安吾の『白痴』も学生時代はさして感銘をうけなかったのに、また買い直さなければと思う。ドストエフスキーの『罪と罰』もすぐにでも読み返したい。などなど。果てがない。
それでも、じっくり読みたいのでだいぶ我慢をしていた。
だが、どうしても我慢できなかったのがこれ。
うちにあるはずなのに本棚に見当たらず、たぶん父親に貸したままになっているので来月実家に行くときに持って帰ればいいのだが、どうにも我慢ができなかったのでKindle版をすぐ買った。新訳ではなく、自分が紙で持っていた旧訳。どうせなら本とは違う新訳を買えばいいんじゃないかと思うが、本で読んだのと同じ訳で読みたかった。
仕事が終わってからタブレットで読み始め、出勤の行き帰りにつづきをスマホで読み、帰宅してからまたつづき。画面で読むのは好きではないが、そんなことは云っていられない。なんといってもおもしろいから、読みにくさは正直ほとんど気にしなかった。
そんなわけで編み物は停滞。
読書と編み物は両立できないな……もどかしい。
コメントを投稿
別ページに移動します2 件のコメント (新着順)
慣れているというか、履き口からしか編めないというかw 靴下を編み始めた頃は、いずれつま先からも編むつもりでいたんですけれどねー。それより前に履き口から編むことに慣れてしまい、機会を逸したという感じです。
ハチドリさんは履き口から編むのに慣れていらっしゃったのですね。
自分がつま先から編む方が慣れているので、つま先からだとばっかり思ってコメントしてました。失礼しました。
慣れない技法を編むときは、まずは、プレーンな靴下を編んで安心したいですよね( ´艸`)