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手芸キットからサンプルへ

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 なんだか持て余している毛糸、というのがある。たいていは何かを編んだ余りか、編み物キットの余り。「編み物キットを編んだあとの余り」ではなく、「やる気がなくなったキットに附属していた毛糸」だ。

 編み物にしても他の手芸にしても、「キットを買ったらすぐ作れ」が鉄則だなとつくづく思う。
 でもこれが意外と難しい。必要なものがすべて揃っていることで安心してしまうのか、そのまま放置されることがわりとある。古い雑誌を見て掲載作品の何かを編みたいと思い、慌てて必要な毛糸を在庫処分価格で購入するのとはわけが違う。
 あんまり苦労せずに手軽に購入できるからなのか? 廃番毛糸を探すのはとても疲れるしな。あの妙な切迫感や焦りはなんなんだろう。ネット検索が基本で、見つけたと思ったら在庫なしだったり、さすがにどうなんだという値段がついていたり、URLが何やら不審だったり。机の前から動いていないのに息切れがする。

 けれどもキットは基本的にそれがない。欲しい色のセットが売り切れということはあっても(そうなると廃番毛糸同様に探す羽目になる)、まあ、キットは目についたらわりとすぐに買うので品切れ率はあまり高くない。昔の雑誌や本を読んで買う、ということがないからだろう。

 で、うちには財布と相談しながら買ったあみぐるみのキットが都合3セットある。
 のだが、こいつらはデザインに惚れ込んだのでやる気が失せる率は低い。
 そんなに気に入っているならすぐ編めよという話だが、なんというか、どれから編むのか迷っているという。ポッコに続いてまたうさぎか、いやワニ、でも珍しいキウイも、という具合。

 こうならないよう、まとめて買わなければいいのだがこの3点を買ったときは品切れが怖かった。あまりに毛糸が簡単に廃番になるらしいとわかってきた頃で、しばらく大丈夫と思っていても何が起こるかわからない、と思った。過去にキットの品切れに遭遇したことはないのに、なんだか急に不安になったのだ。さんざん本の絶版に苦しめられてきた過去のせいもあるのだろうか。

 話が逸れたが、とりあえずあみぐるみは問題なしである。いろいろ問題があるが最終的に必ず編むという未来は見えているので問題なし。ほんとに。

 それより問題なのは、あみぐるみ以外だ。

 たとえばフェリシモの「かぎ針編みの基礎」とか「グラニースクエアのキット」とか「裁縫の基本」とか。
 かぎ針編みの基礎は、途中から「この色合わせは嫌だ」とか「この糸は好きじゃない」とか「かわいくない」とか、そんなのいいからおとなしく基礎やれよと思う。が、そもそもかぎ針編みはそれなりに編めるのに「基礎」を銘打った代物に手を出したことが問題だった。

 わたしはものをきちんと学ぶという経験に乏しい。子供の頃も習い事などしたことがない。野生の勘とか直感でいろんなことをどうにかするので別にいいのだが、ふとしたときに「きちんと基礎からやりたい」と思ってしまう。

 それでかぎ針編みの基礎とか裁縫の基礎とかのキットに目がくらんだわけだが、自分で適当にどうにかできるのだから当然ながら余裕があり、それで技能以外の部分に目がいって、説明書通りに編まないとか縫わないとか、ぜんぜん違うものを作ったりとか、いろいろ残念な結末を迎えることになる。
 わからないことは真面目にやるが、わかることは適当に好きなようにやる。始末悪いなほんとに。とりあえずもうナントカの基礎みたいなキット買うのやめよう。

 そんなわけで放置していたキットは、あるとき中味をきれいに分けた。布は布、糸は糸、毛糸は毛糸。分けてどうするかというと、毛糸の場合はこんな具合。
 ゴム編みとメリヤス編み。
 靴下をほどいたときに「ゴム編みとメリヤス編みの境目がわからない」と思ったので、見分け方を確認するための編み地を編んだ。
 色分けしているのでわかりやすい。そうそう、このゴム編みの裏目と表目の関係がよくわかんなかったんだよな。表目と隣り合っている裏目が見分けられなかった。でも結局、メリヤス編みの1段目を見れば判断できるということか。
 そんなことは当たり前なのだろうが、わたしはわかっていないのでこういうサンプルが役に立つ。理詰めで考えていけば結論が出たかもしれないけれど、実際どうなるのかを編み地で見ればなおのこと得心がいく。

 使い道がなくて量も中途半端な毛糸は、こうやって自分用の学びに使ったり、変な思いつきを試したりするのにちょうどいい。よしよし。無駄になどしていないぞ。有効活用。キットの編み図はともあれ素材はゴミにならずに済んでいる(裁縫キットの布と糸もこんな具合に使い道を見つけられるだろう。たぶん)。

 ただし、死後の遺品整理で大量の謎の小さな編み地が発見されたときのことを考えると……あ、もう死んでるから別に気にならないか。