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少しはマシに

 前回の投稿で「初めて金票40番で編んだものをいま編み直しても、上達している確信がない」ということを書いたが、やっぱり多少マシになったんじゃね?と思った。

 中央に近いところの裏引き上げ編みで筋状に盛り上がった部分の目が、以前よりも均等に編めている気がする。たぶん。……たぶん。
 でも全体的に、不安定なところがだいぶ減った気がする。……たぶん。いや、ぱっと見てすぐ「ここがなあ」と思うのはうまくピンで引っ張ることができなかった外周部分のみで、内側についてはさしたる歪みを感じないというか。もちろん完全な円になっているわけではないのだが、たとえば従妹がこれを編んだといって持ってきたらきれいに編めていることに驚くと思う。

 いや、最初に編んだものも充分に、というか自分にしては、初めてこんな細い糸で編んだにしては、我ながら「おまえスゲエな」と思うのだ。いくらピン打ちをしてスチームをかけても矯正されないヨレヨレの編み目だらけというわけでもなく、派手な編み間違いもなく、一見するときちんと「レース編みのドイリー」という形状を保っているのだから。

 もちろん一般的な、というか、編み物に慣れた人の目にこれがどう映るのかなどわからない。果たして編み物教室のような場所で教えている人が、生徒がこのくらいのものを編んだら「よくできた」と思うのかどうか知りようがない。

 まあ、云ってしまえばギターと同じで、単に「技術」をみようとしても計算の正解・不正解みたいにはいかないよな、と思う。
 非常にきれいな編み目のセーターがあったとしても、すべての目の大きさが完全に同じわけではないだろう。数ミリ単位の誤差があるのがむしろ当たり前で、糸の伸縮性を考えると機械ですらすべての目の大きさを同一にすることは不可能なんじゃないだろうか。
 だからどういうものが「きれいな編み地」になるかというと、一瞥したときに不安定さを感じなければすべて「きれいな編み地」と呼ばれるのではないか、と思う。
 編み地に限らず、どこかバランスが崩れていると人間の目はけっこうな精度でそれに気がつくと思う。けれども他方で、バランスが崩れていても調和があれば不安定とは感じない、という感覚の補正のようなことも起きる。要するに、たとえば真っ白な紙の左下にひとつだけ穴が空いていれば違和感を感じるが、全面にたくさん空いていれば「そういうものだ」と納得できる、というのに似ているんじゃないだろうか。たとえが難しいな。

 要するに、「自分の感覚が是としているならそれでいいんじゃね」という話。



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