四の五の云わずに編まなければ、ということで、ガザの靴下。
初の編み込み靴下なのでゲージ必須、と思うも3段くらいで挫折。 輪針でゲージとるのめんどくせ……。棒針ならばこんなことはないのだが、輪針で編むのだから輪針でゲージをとらなければ意味がない。 なので、諦めた。
この靴下は最初につま先を編む。ならばそこで足回りの目数がどのくらいが適切なのかを足にあわせて確認して、それから続けて編んでいけば大丈夫なのでは、と雑に考えた。
つま先の終わりが60目で、編み込み模様も同じ目数で編んだら目が詰まってしまう可能性もあるけれど、まあ、そう極端に編み込み部分がきつくなることはないだろう。冗談じゃないレベルにきつくなってしまったら編み直せばいいや。
今回の模様は糸が長く渡るところがある。白地に金網のような模様なのだ。ということは、裏に渡る糸を何目で巻きつけて止めるか、ということも考えなければならない。普通は何目だったかな……編み込みはクリスマスのアドベント靴下くらいしかやらないので覚えていない。
何かに載ってたっけ?と考えたところで、考えるのをやめた。長いったって10cmとかではないんだし、別にそのままでいいや。一日に何度も脱ぎ履きするものでもないし、朝起きて履くときに糸を引っかけないよう気をつければ問題ないだろう。それでも駄目だったらそのときまた考えればいいし。フェルティングニードルで軽くざくざくやるとか。
と、面倒な問題をぜんぶ適当に片づけてしまった。ほんとにそれでいいのか、と思う元気もない。別にやり直せばいいんだし。完成した靴下をほどいて最初からやり直したこともあるので、変に開き直っているようだ。
とはいえ、編み方自体は以前編んだものとだいたい同じらしく、参考動画をもういっぺん観なければとは思う。そこはきちんとやる。ゲージや裏の糸の処理も大事なんじゃないかと思うが、そっちは別にいいや。
●How to knit the VKL Memories Socks: Full Tutorial
なお、マジックループを習得する努力は放棄したので、つま先は今回もこの方法。
●How to do a closed toe cast on. The ARNE & CARLOS Sock Special
久し振りにアルネ&カルロスの動画を観たな……動画をすべて観て内容や感想を記録するつもりでいたのに、仕事で追い詰められすぎていたら英語を聞き取る余力がどこかへ行ってしまった。
この編み方も久し振りなわけで、最初に挑戦したときは難しくてぜんぜん駄目、2回目はうまくいった、では今回はどうだろう?
まあ、こんなもんか。糸を棒針にかけたあとの段がなかなか呻吟させられるやりにくさで、最初は酔っ払っていたのに終わる頃にはほとんど酔いがさめてしまった。 糸をかける針だけちょっと太くすれば多少ましになるだろうか。でもつま先なので、そこだけ微妙に目が大きいのもどうかと思うし、うまいやり方がすぐには見つかりそうにない。
ここから余談。編み物まったく関係なし。
英語については「理解できれば、よりたくさんの情報を読める」というのが念頭にあり、日本では有名どころではない系統の音楽ばかり聴いている身としては、英語がわかるといろいろ知ることができる。
翻訳機能を使えばいいという話もあるが、Instagramで正反対の翻訳に遭遇したのであんまり信用していない。というか、Google翻訳なりDeepなんちゃらを使っても、そこに表示された日本語訳なり英訳なりを自分で読んで「ほんとにこれで合ってる?」などと確認している始末なのだから、自分で英語ができるようになった方が早いと考えるのが自然だろう。
ただ、現時点の雑で適当な英語力で翻訳を疑うことができるなら、こんくらいで事足りるってことなのか?とも思う。アルネ&カルロスの動画にしても、まず耳で聞き、わからなければYouTubeの粗い字幕に頼り、わかる情報を脳内の蓋付きバケツに放り込んでガラガラ振って「だいたいこんな感じ」の日本語を組み立てる、という具合にやっているのだ。
なんでこんなやり方で「だいだいこうかな」がわかるのか、長らく謎だった。いくらなんでも雑すぎるだろ、と思うが、こういう方法で痛い目をみたことがほとんどないのだからそれなりにうまくいっていることになるわけで……
自分なりの結論としては、日本語を組み立てる能力でだいぶ補えているということなのかな、ということだ。外国の人が日本語の単語をいくつか並べてくれれば、それらを整理して何を伝えようとしているのか理解できることが多い。それと同じ理屈で、英語の文章全体がわからなくても、部分的な単語や表現を日本語の文章としてまとめられるから、「だいたいこんな感じ」が成立しているのではないか。
雑だな……
でもまあ、長いこと日本人をやっていて狂ったように本ばかり読んでいたわけだから、逆にそのくらいできるだろとも思う。
他人に会議の内容を聞いて議事録を書いたり、抜けだらけの手順書の足りない部分を想像で補って実際の手順(実際にどうやっているのかは知らない)に近づけたり、「普通そんなことできませんよ」と云われてしまうようなことをやっているのは、とにかく本ばかり読んでいたからだと思う。「普通」ではない部分はそのくらいなはずだから。……「普通はそんなことできない」って、普通やらねえよこんなこと。おまえらきちんと仕事しろよちくしょう。
ともあれ、なんかもう別にこれでいいやという感じで英語についての努力を放棄しつつある。ていうか、そんな余力はない。めんどくさい。疲れた。表音文字嫌い。
それに加えて、長すぎるブランクのあとに改めてストリート・スライダーズを聴いていたら、やっぱり日本語の表現をつきつめたいと思った。柄にもなく日本語の詩を少しばかり読んできたので(詩的センスのかけらもないのに)、ハリーの歌詞に触発されてしまった。
英語と日本語の混じった歌詞が詩なのか、という疑問は中原中也がまさにそんな詩を書いているので解消済み。英語をちりばめた日本語のロックが陳腐なのは間違いないのだが、それは言葉の選び方や配置がへたくそだから。まあ、歌詞はオマケで曲優先だとそうなるのかもしれないけれど。
洋楽ばかり聴いてきたせいか、歌詞と音楽は別々に楽しむのが癖になっていたと思う。もちろんたまには、歌詞を英文で理解して同時に楽しむこともゼロではなかったけれど、まあほとんどない。「英語を英語として理解する」というのはけっこう難しい。
なのでスライダーズを聴いていると、曲と歌詞がいっぺんに襲いかかってくる。おまけにハリーと蘭丸のギターの絡み方は独特で(普通のロックンロールをあまり聴かないせいでそう思うのかもしれないが)、それで毎晩のように酒飲みながら聴いちゃうんだよな……
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