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棒針編みを鬼門のままにしない方法を考える

 棒針で何かを編むときに生じるトラブルが強烈かつ何度も起こるので、もはや鬼門と化している、ということを先日書いた。
 鬼門に感じられるという気持ちは今でも変わらない。が、言葉は現実を補強したり引っ張ったりする性質を備えているので、このまま放置するわけにはいかない。たとえば万葉集に載っている古代の和歌が「こうなりたい・こうであって欲しい」という願いをまるで事実・現実のごとく描写したような方法で、言葉の力に対して何かしらの対抗策を講じておくべきだろう。

 といっても、無邪気に「棒針編みなんて簡単」とかほざけば済む話ではない。棒針編みを「鬼門」とまで捉えている自分なのだから、そうではないと納得させるような内容が必要だ。要は自分の思い込みが勘違いであるとわからせなければ。

 さて。
 まずは鬼門だと実感せずに済むような棒針編みの何かを編んだことはあるか?を考えると、答えは簡単、靴下である。
 これまで編んだものは30組。うち1組は完成後にほどいて編み直したので、それもカウントすれば31組分。
 よくもまあこんなに編んだよな、と思う。30日間、日替わりで履ける数。市販の靴下であっても30組そろえている人は決して多くないんじゃなかろうか。このうち何組かは人に贈るために編み、1組は完成後にほどいて編み直さないままになっているので、自分用として手元にあるのはたぶん25組くらい。25組の靴下というのもやっぱり普通ではない気がする。
 中細毛糸で編んだとはいえ市販の靴下よりもかさばるので、衣類用の引き出しではなく使っていない鞄ふたつに分けて収納している。いろんな意味でなんかその、アホかと思う。無計画もいいところ。

 そんな靴下の第1号は驚くほどスムーズに編めた。履き口を数センチ編んだ段階で、メリヤス編みからゴム編みに変更するためにすべてほどいたけれど、やり直し後は手戻りなしだったように記憶している。
 文字通り「書いてある通りに編むだけ」だったのだが、初めての靴下を編む前に梅村マルティナさんが靴下を編む動画を何度か観て、それで構造を理解できたことは大きかったと思う。自分がいま何をどうするために編んでいるかを理解できていたので、初めて棒針で編む立体構造に戸惑うことはなかった。
 それで確か、「棒針編みは面倒だと思っていたがそうではなかった」と初めて実感できたと思う。子供の頃に少しだけやってみたときは面倒という印象しか持てなかったので、自分向きではないと長らく信じて疑わなかったのに、細い毛糸と棒針で難なく編めたのは驚きだった。なんだ、ぜんぜん難しくないじゃん、と。

 アルネ&カルロスのアドベント靴下も問題なかった。これは「自分にも編み込み模様が編めるか?」を知りたいという目的もあって挑戦したのだけれど、編み目がガタガタで糸の引き具合も乱雑で汚い仕上がり、にはならなかった。
諦めが肝心 | ハチドリの記

諦めが肝心 | ハチドリの記

 棒針編みは子供の頃に根気が続かず挫折し、きちんとやろうと再開したのが今年のはじめ。  それでここまで編めたら充分でしょう。  でこぼこの編み地がかなりマシになったのはアイロンとぬれタオルのおかげ。  伏せ止めは、ゴム編み止めではなくかぎ針を使う方法で済ませた。  ゴム編み止めは...

 初挑戦でこのくらいになったということは、「棒針編みが難しい」というのはとんでもない思い違いだったのかもしれないと思った。

 それから、レンテンローズ・カウル。
迫力あるカウル | ハチドリの記

迫力あるカウル | ハチドリの記

 このところ寒くてしょうがない。昼はまだ日なたにいれば幾分ましだが、夜や早朝になると寒気がするほど寒い。っていうか、これ寒いせいじゃなくて風邪か……鼻水ひどいし。くしゃみも咳も鼻水も集中力の邪魔をするばかりで、読書にも編み物にもろくろく没頭できない。いやそれより寝てろって話だな。...

 編み方にちょっとした工夫が必要な模様だったが、構成が自分の性に合っていたのか、飽きることも嫌気がさすこともなく完成まで編み進められた。あの楽しさはレース編みにも少し似ているように思う。

 30組の靴下と編み込み模様のアドベント靴下3足と模様編みのカウル1組。これらは間違いなく鬼門ではない。なんならカウルはもういっぺん編んでみたいし、アドベント靴下はもはや毎年恒例になっているし、靴下に至っては自分であれこれ工夫を考えては試して、自分なりの定番靴下の編み方をまとめた。

 それがなぜ「鬼門」とまで思うようになったか。

 要因は間違いなく服である。

 セーターを編もうとしたらまず簡易編み図が意味不明、あれこれ調べてノートにまとめてようやく理解したら今度は基礎本に載っていない記号が登場し、たまたま『毛糸だま』にその記号の説明があったのでなんとかなって、セーターは完成した。

 変わり毛糸のチュニックは、金票40番くらいに細い糸を棒針15号(6.6mm)で編むことがどうしようもなく辛かった。しかも輪編みで編むとの指示だったため、編み地は重いし太い棒針も重いし。こう書いているだけで「細い糸を太い編み針で編むのも、輪編みで襟から編むのも、どっちも何があっても二度とやりたくねえ!」と叫びたくなるくらい嫌気がさした。

 ポンチョ風プルオーバーでは、人生初のセーターの時以上に調べ物で苦しむことになった。裾の引き上げ編みの編み方が、基礎本の説明では図と文章が一致しておらず、編み物アプリで調べたらまた違う説明がされており、このわけのわからなさが途轍もなく耐えがたかった。
 実はこの影響で、棒針編みの別の基礎本を探す気が失せてしまい、棒針編みの編み目記号の本も信用できるかわかったもんじゃねえやという気分が未だにとても強いので買う気になれない。「基礎」本という存在が信用できなくなってしまったがために、レース編みの基礎本ですら買うのをためらった有り様だ(結果的にレース編みへの好奇心が勝り、しかも内容は至極まともでわかりやすかったので、少なくともレース編みの基礎本については不信感はない)。

 ……ということは、鬼門となった要因は服じゃなくて基礎本か。

  棒針編みの基礎知識がない
    ↓ 
  本で調べよう
    ↓
  本に載っていない・本の内容が疑わしい

 というわけだ。
 そりゃ嫌気もさすよな。調べても何もわからないんだから。

 靴下と編み込みアドベント靴下と模様編みカウルがこういう状況に陥らずに済んだのは、基礎知識がないところは同じだけれど

 ・動画で全体の構造を知ることができた
 ・変わった編み方の説明はパターンにわかりやすく書いてあった

 と、「わからないことを理解する手だてがあった」という点が決定的に違う。編み込みアドベント靴下だけは「バランスよく各色の糸をかけて編む方法」の説明はなかったけれど、なぜ問題なく編めたのだろう。1日ごとの模様を公開する動画にアルネが編んでいる様子が映っていたので、それを凝視していたおかげでなんとなく感覚がわかったのだろうか。

 とにかく、「服を編むときは不明点を解決するために何時間もかけて調べる羽目になったり矛盾した説明しか見つからない」という経験が原因なのではなく、というかそれは確かに原因なのだが、突き詰めると「明快な答えがない」とか「正しい説明がない」ことが問題なのだろう。

 なんだか致命的だ……

 でも待て、かぎ針編みの編み図で「どうやって編み進めるんだこれ」と思ったことがあるな。あれはどう解決したんだっけ? ……編み進める方のパターンをいくつか想定して、そのうち最も合理的だと思えたものをやったら編めたな。調べようがなかったから調べずに済ませたわけだ。
 ならば「明快な答えもなく、矛盾した説明しか見つからない」という場合はどうすべきか。普通なら更にしつこく調べるところだが、既にさんざん調べて嫌気がさすまでになった状態なのだから、それ以外の方法をとるのが最善だろう。妙な説明だからといって更に調べたらもっと意味不明になったもんな。だから「調べる」のをやめるべきか。

 では不慣れな棒針編みで「方法をいくつか想定して最も合理的なものを試す」ということは可能だろうか。いや、靴下を30組も編んでおいて「不慣れ」はさすがに卑下しすぎか。それに靴下では気になった部分を自分なりに考えて工夫することができるのだから、棒針編みだからといって何も発想できないわけではない。

 ということは、何かわからないことがあったら自分でどうすればいいのか考えてやればいい……のか?

 乱暴な論理だ。が、少しでも嫌気がさす原因を取り除きたいのであれば、納得できない説明と関わりを持たない方が断然いい。信用できない上司とは接点を持たないようにするのと同じだ。
 棒針編みの基礎本は捨てた方がいいのかもしれない。母から譲り受けた昭和の付録冊子だけは手元に残して(この冊子だけは不信感を抱かずに読める)、それを読んでもわからないことは自分で考えてどうにかしよう。
 ネットで調べることもできれば避けたいが、そこはまあ信頼できるブログなど限定的な範囲を調べるくらいにしておこう。複数の情報源で調べたことを整理して合理的な結論を導き出せるならいいが、そうでないなら調べるのはすぐやめて自分で考えること。

 「棒針編みについて調べることこそが原因」と仮定して、当面はこの方法でやってみよう。改めて書くが、乱暴な話だ。極論ともいえる。

 けれども、古いやり方を好みがちな自分ならばこういう方法が意外と合っているかもしれない。棒針編みが発明された極初期は、基礎本なんかなくても人は自分で考えながら編んでいたはずだ。そこには試行錯誤が伴うが、幸いなことに自分はそれがちっとも苦にならない。
 便利なもの(基礎本や誰かの説明)をあてにするからこそ、あてにならないとわかれば苛立つのだ。自分の外に存在するものを最初からあてにしなければそんなことは起こらない。
 そして自分の頭だけを頼ってろくな結論が出なかったとしても、自分の頭が悪いとしみじみ実感して一から考え直せばいい。経験から云うと、考える角度を何度か変えればそれなりになんとかなる。棒針編みでそれが通用するかどうかはわからないが。

 歴史や文学の研究と同じようにはいかないもんだな……これらについては資料を山ほど読めば疑問はそれなりに解けていくのに、調べれば調べるほどわからなくなるなんて棒針編み以外で経験したことはたぶんない。それとも、そもそも自分の基本姿勢が編み物向きではないのだろうか。
 やはり棒針編みはいったん「わからなければ自分で考えてどうにかする」という姿勢でやってみよう。これでも棒針編みが鬼門だという印象が拭えないならば、もうそれは絶対的に自分に向いていないということで、疑問を抱かずに編めるもの以外は潔く諦めるのがいちばんだ。



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