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編み物の練習

 そろそろ4月が終わるので、仕事が追い込みで更に忙しく……いや、仕事の話はやめよう。

 そろそろ4月が終わるので、ということは夏日になる日が増えて滝汗をかく機会も増えるので、ノースリーブに本腰を入れなければ。
 いろんなことの合間にちょっとずつ編み進めているものの、中細毛糸で着るものを編むのはなかなか骨が折れるらしいとわかってきた。進まない。たくさん編んだのにまだこれだけかと軽く愕然とする。
 ひょっとして模様編みというのは、延々とメリヤス編みだけを編んでいると飽きるから生み出された技術なのではないか。退屈せずに完成にこぎつけるために、適度にめんどくさい編み方を入れてうわぁ模様ができてきたという小さな達成感も折り込む、という。

 黙々と編んでいるといくらでもこういう下らないことを考えられる。いや、編んでいるときに限らずいつもか……ともあれ、他のことをあれこれ考えながら編めるというのは決して悪いことじゃない。単純な動作の繰り返しだからこそ頭のなかに余白ができて、下らないことも真面目なことも深刻なことも考えて、段数カウンタを押し忘れたりする。なかなかにスリリングである。こんなスリルいらねえ。

 ところで、簡易編み図をわたしにもわかるように書き直す作業はだいぶ前にけっこう進んだ。
 うしろ身頃はもうすぐ終わり。まだ前身頃の襟ぐりの割り出し解読が残っている。ほんとこれは「解読」という感じ。たーいへん。でも、肩下がりがないことを少し物足りなく感じているのはなんでだろうな……。

 わたしはなで肩の部類に入るようなので、本当は肩下がりがあった方が良いのだろうなと思う。でも、……まあ、いくら無謀なわたしでも今の段階でそういうアレンジを加えようとは思わない。できんわ。
 それよりは編み図通りに編んでみて、肩下がりが必須かどうか、今後の参考にしたい。毛糸はのびるからだいたいでオッケーというのがどこまで通用するのか判断したい。

 そう、相も変わらず編むものは練習である。靴下なんて毎回何かしら「試しにやってみよう」な要素が含まれているのである。だがいったい「なんのための」練習なのかはわからない。練習があるからには本番とかそういうものが存在するはずだが、なんだろうな。好き勝手に編むための練習か?


 余談だが本日、仕事によるくさくさした気分の限界で、友人を誘って徒歩15秒のファミレスで晩ごはん。口内炎が痛いので赤ワインをグラスで頼んだら一気に酔いが回り(基本的にすぐ酔う)、久し振りの酒で気分で気分が良くなってデキャンタで白ワインを注文(すぐ酔うがそのあとは延々と飲める)。
 本当に久し振りのワインだったせいか口内炎はすぐに治り、酔っ払って気分も晴れ晴れ。しかし現在、頭が痛い。酔いが醒めるにつれて頭痛が増すのはどういうわけだろう。無理して気分を建て直そうとしたからしっぺ返しがきたということか。