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でも・しかし・けれども

 いつだったか、「理屈をきちんと覚えればごまかせるようになる」という意味のことを書いた。仕組みがわからなければ、何かを間違えたときにはやり直すしかない。適当にやってごまかすことすらできないのだ。と思う。ごまかした部分が目立ってもいいのならばこの限りではないが。

 といっても、ただごまかすために理屈を学ぼうとしているわけではない。さすがにそこまで雑ではなく、ごまかす必要なしに編めるのがいちばんだと思う。たとえばこの靴下なんかは初挑戦の編み方をして見事にかかとが隙間だらけになったが、適当にかがることはしていない。
 いま編んでいるもう片方で改善するために、隙間をじっくり眺めて何が問題なのかを考えたりしている。なんでこうなったんだろう……糸を拾う場所を間違えているのか、それともこの編み方はこうなるものなのか、それとも糸の引き具合の問題なのか、などなど。説明通りにやったつもりなので余計に原因がわからない。

 昨日の分散増し目の続きだが、疑問に拍車をかけたのが丸ヨークのセーターである。丸ヨークのセーターは最初から輪にして編むというのを何かで見たことがあり、となると、そのときは輪の状態で均等に分けるんじゃないのか? だったら、平に編むものも最終的なかたちを前提にして分散増し目を算出しなきゃいけないんじゃないのかなあ……と。

 自分の頭に浮かんだことが何か変ではないか、と思って試しに図を書いてみたが(概念がわかればよいのでとじはぎ分は考慮していない)、「輪にしたら均等になる位置が変わる」ということを確認できただけだった。ますます疑問がつのる。
 輪にした状態で分散増減をするのは丸ヨークのセーター特有の方法なのだ、と考えることもできないわけじゃない。
 また、編み物というのは多少のズレは気にしなくていいものだ、というのは靴下やセーターで理解した。1段ズレても問題ない世界なのだと。

 でもそれなのに、わざわざ「分散増し目」と銘打って均等に振り分ける計算方法が存在するのである。丸ヨーク限定で適用されるわけでもなしに。「だいたいこのへんでいいや」で済ませることをしないのには、何か理由があるのでは?と考えてしまってもしょうがないと思うがどうだろうか。
 確か日本ヴォーグ社から分散増減についての本とか、あと早見表とかも昔から存在しているはず。そこまでやるなら「だいたいこのへんでいいや」では駄目なんじゃなかろうか。

 となれば、前身頃とうしろ身頃を分けた状態で均等に分けるのも駄目なんじゃないのかなあ。
 とじはぎで1目くらい減るだろうからそのへんも考慮して分散しないと駄目なのではないかと……これまた編み図に記載のないことを考えなければいけないのではないかと……。

 なんだか、考えれば考えるほど「なぜだ」と謎が深くなっていくが、それと同時に熟練者の人や編み物教室の先生などは「そこまで深く考えなくてもいいのよ〜」という反応をしそうな気がすごくする。
 それならなんで分散増減法なんていうものが存在しているのか意味がわからん。どこまで細かく、どこからが適当でいいのか判断がつかない。「でも」「だけど」が頻出する思考は消耗する。気分は木の回りをぐるぐる回ってバターになりかけている虎である。あの発想すごいよな。乳成分ほぼなしの虎がバターになるって。