前回の投稿で、自分は「うまく編むことより、楽しく編むことより、書いてある通りに編んだら書いてある通りのかたちになる」を重視する、と書いた。
投稿してしばらくしてから読み返したら、寝言は寝て云えとかそういう類いのことを思った。
「書いてある通りに編んだら書いてある通りのかたちになる」って、まあ、普通にやればそうなるだろうがよ。ならなければ、書いてある通りに編めていないというわけで。
うん…………こんなことを重視するって意味わかんねえな。
わたしは時々、自分の口から出た言葉や、考えていて不意に出てきた言葉にびっくりすることがある。こんなことを云う(考える)つもりはなかったのになんでだ?と。
こういう現象は脳が筋肉みたいな働き方をしたせいじゃないのかな、などと思ったりする。たとえば転びそうになったとき、考えるより先に手が出て身を支えようとするのと同じで、脳が咄嗟に言葉を生み出しているのではないかと。文字通りの脳筋ってやつか。
では「書いてある通りに編んだら書いてある通りのかたちになる」のを重視するのはなぜなのか。
編み物で「かたちになる」といって思い出すのは靴下。たぶん、初めてあみぐるみを編んだときにもそれなりに驚いたと思うのだが、昔のことで記憶がない。
靴下は、マルティナさんの本を見ながら書いてある通りに編み、かかとができたときに「ほんとに立体になった!」と驚いた。
いや、立体になるような編み方を書いてあるんだから当たり前だろうよ。と思うが、本当に立体になったときは感動に近いものを感じた。
こういうことは編み物以外の場面でもあって、Excelでクソややこしい数式をひねり出して入力してEnterキーを押下したら望む結果が出た、なんていう場面である。そうなるように頑張って頭を働かせているのだから当たり前なのだが。むしろそうなってくれないと困るので、まあ、「間違ってなくてよかった」と安堵する程度で済むはずなのに、どういうわけか「おお、すげえ」なんて思ったりする。
別にすごくはない。
のだが、すごいと感じてしまうのは「これでいけるかなー、なんか組み方おかしい気がするけど最初に書いたやつだと変だったしなー、あれと反対の処理をするようにするならこうしかないよなー」なんて具合に、「これでいいはず」と思いながらも「これでいいのかな」と不安になっているからかもしれない、と思う。
そんな状態で結果がきちんと出れば、不安が大きければ大きいほど安堵にとどまらずに「すごい」などと口から出てしまうのではないか。「まさかできるなんて」という驚きが「すごい」という語で表現されているという(言語センスおかしいな、わたし)。
翻って編み物である。
これだけだらだら書いてきたので書く必要もないかと思うが、とにかく編み物の場合も「書いてある通りに編んでいるつもりだけどなんか違う気がする」という不安があるに違いない。
子供の頃から間断なく続けてきたいくつかのことに関してはこういうことはないのだが、20代以降に得たものについてはそうはいかないようだ。Excelだって相当のレベルでできるとの評価をされているが、実態は前述のような綱渡りだ(ただし自信のなさを表に出すと周囲を不安にさせるので、涼しい顔をしているが)。
なので、編み物については死ぬまで「書いてある通りに編んで書いてある通りのかたちになること」を最優先にするだろう。
このしょうもない軛から逃れられる場面があるとすれば、自由に好き勝手に編んで何かをつくるときである。思いつくまま自由にざくざく編んでかっこいいセーターとかを編んでみたい。傍目にはボロ布に見えることうけあいだがそういう服が好きなのは昔からなのだからしょうがない。
「グランジとノーウェーブに育まれた人間がおばあちゃんカラーの毛糸で自由に編んだ自分好みのセーター」が今いちばんの目標である。そのために基礎をクソ真面目に理解しようとしていることとの落差がなんだかな。
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