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同時に靴下の同時編み

 「自分の考えたことは既に誰かが考えたこと」という救いようのないことを認識したのは10代の頃だったと思う。どうも子供の頃から物事を広汎に考える傾向があったようで、半径1メートル以内のことだけ考えていたつもりがどんどん広がっていって自分の無力さを思い知ったり、なかなかに妙だった。それでいて自分の特定の能力が揺るぎないものだと自信を持ったりしていたので、まあ、子供というのは錯乱気味なものなんだろう。そもそも世界のルールなんか知らないのだからいろいろやりたい放題である。

 ならば学生時代に論文やレポートなどはろくに書けるはずもない。「どうせ新しい考えなんか書けないんだし」という絶望が前提にある状態でいったい何が書けるというのか。参考文献から自分の考えに近い引用を適当につぎはぎして、800字くらいで当たり障りのない一般論のまとめを書くのが関の山だろう。

 けれどもわたしは大学生になっても相変わらず錯乱していたので、レポート用紙60枚余りの論文を一般教養科目でしかなかった哲学の課題で提出したり、考査がテストではなくレポートや論文である講義を敢えて選んで履修したり、要するに自分が書きたいことがあったから書いていた。
 「既に誰かが考えていたからなんだっていうんだ」という開き直りすらなくて、他人はあくまでも他人だから関係なかっただけだろう。今まで頭に浮かばなかった考えを誰かが考えていたとしても、「自分は」今はじめて考えたのだ。たとえ他人とまったく同じ瞬間に同じことを考えたとしても、「自分も」いま考えたのだ。あくまでも自分はどうかということしか考えていないので、まあ、高校くらいまでは人間関係でそれなりに苦労した。女子ほんとめんどくせえ。

 ただし、同じことを考えている人を見つけても常に無関心というわけではなくて、主に自分との相違点にはそれなりに関心を抱く。で、その相違点についていろいろ考えたりする。方向性は同じなのに何がズレているのかを理解することは、まあ、おもしろかったりうんざりしたり失望したりといろんな結果になるので疲れる。だから基本的には無関心だ。よほどのことがないと考えない。何を見聞きしてもものを考えてしまうため脳の酷使されっぷりが既に90代後半並みなんじゃないかと思うので、稼働率を下げてやらないとまずい気がしているせいもある。

 それでは「よほどのこと」とはいったいどういう場合かというと、たとえば今であれば編み物に関することである。といってもまだ知識が乏しいので、考えの相違点について考えるというよりは、自分の考えたことに不足している内容を得るくらいなのだが。

 たとえば最近、先日完成した靴下のあと、次は両方を2本のミニ輪針で同時進行で編んでみよう、と考えた。輪針2本を使って片方の靴下を編む方法を試すためにミニ輪針を買い足したのだが、思っていたほど編みやすいものではなかったので、ならば次に試すのは同時編みしかない。幸いなことに、ロット番号が同じソックヤーンもあるのだ。
 などと考えていたところで以下の投稿を読んだのでびっくりした。

次はLotteを編むぞー ~52 Weeks of Socksプロジェクト

次はLotteを編むぞー ~52 Weeks of Socksプロジェクト

 前回合計30足目となるKuntumが編み終わり、次に編むのはLotteというくつ下です。  くつ下パターン集、Laine Publishingの“52 Weeks of Socks”(リンク先:Ra

 実は筆者のYukaさんとは以前も同じタイミングで変則ゴム編みの作り目について記事を書いていたという偶然があり、自分の知らないところならいざ知らず、拝読しているブログでこういうことが二度も起きるとはさすがに驚いた。

 しかし、……興味本位で同時編みをしようとしているこちらとは違い、利点について書かれていてなるほどなと思った。まあ自分の編む靴下は模様もないし新しい編み方もしないのだが、編み込み模様の靴下を編むときにこれは便利な方法かもしれないぞと気づかされた。同時編みのいいところは「片方編んだらもう片方を編む気が失せる」という現象(すぐに両方編み上げて履きたいわたしには無縁の現象)の防止と、大きさを揃えやすいことくらいだと思っていたのだが。

 二度あることは三度あるというが、三度目、あるんだろうか。あるとしたらなんだろうな。