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人生9番目の手編みの靴下

 いつまで「人生で何番目」を数えるのだろう。たぶん死ぬまで。ボケても数える自信がある。

 同時編み最高!とちょっと思った。履き口のゴム編みとつま先は片方ずつ編んだとはいえ(同じ材質の棒針が1組しかないので)、糸始末が終わればすぐ履ける。
 
 大きさが揃ったのは当たり前として、今回はいつになくぴったりの大きさになった。なんでだろう。錯覚かもしれない。まあいいや。
 錯覚でないのはつま先の仕上がりで、いつもはこんなにきれいな弧を描いていなかったと思う。微妙にガタついているというか、まあそんなのは二度三度と洗濯をするうちにわからなくなっていくのだが。
 ちょっと履き口のゴム編みの伸びが悪いような気がするので、次は作り目の棒針の号数をひとつ大きくして4号針を使うか、ゴム編み自体を3号針で編んでみるか、少しやり方を変えてみよう。




 以下はどうでもいい、編み物とはなんの関係もない話。

 物事がうまくいかない程度で気が滅入るなど笑止千万、と思うけれど滅入ってしまった気分はもうどうしようもない。「雑でいいかげんで神経質でクソ真面目」という性格が今更まともになるはずもない。

 滅入った気分がどうでもよくなるような何かがあればいいのだが、そしてそれはきのう見つけたのだが、厚さ3.5cmの段組み465ページの本……しかも近現代史というか国際問題というか、まあそういう内容。
 歴史や国際関係に関する本を読むときは、一度目は素直にそのまま読み、二度目以降は他国から見た場合の視点も併せながら読む。今回の本はおおよそのことしか知らない地域の歴史を理解したうえで読む必要があるので、まあ一度目の段階でけっこうな時間を要することになる。しかも主張がまったく一致しない二国間が主題なので、もう一方の国についても同様の本を探して読む必要がある。
 しかも著者は「普通」とは違う経歴の持ち主なので、学者が書いたものを読むときとは別種の注意をしながら読まなければならない。まあ、偏向報道やフェイクニュースを鵜呑みにするバカとはまったく違う、という前提は合っていると思うし、部外者の勝手な言い分に堕してはいないと思うのだが、それでも冷静になって読まないと危ないと思う。

 読み始めれば滅入った気分など瞬時に吹き飛ぶのはわかっている。が、仕事のことも生活のことも間違いなく吹っ飛ぶ。ぜんぶどうでもよくなるというか、片手間の片手間の片手間にすらならなくなる。
 わたしは社会人としての能力が低いので、生活の糧を失わないようどうバランスをとってこの本を読むか全力で努力しなきゃならない。文学と哲学に没頭したため半年間大学に行かなくなって留年したという前科があるので、せめて最低限の仕事と家事をできるだけの余力を残さなければならない。

 こうやって自分の本の読み方を書き出してみるとめちゃくちゃ気持ち悪いなと思う。文学ならもうちょっとまともな読み方をしているはず、と少し考えてみたらなんか別の次元で気持ち悪いような気がした。というか編み物への取り組み方もちょっと気持ち悪いかもしれない。これ、ボケたらどうなるんだろうな。