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ちょっと弱気かもしれない

 とにかく自信を持っていないと落ち着かないのか、不安なのか。じわじわと「ジャストサイズのノースリーブなんか編めないんじゃね」という気持ちが盛り上がってきた。なんでだろう。「準備してある色違いの毛糸は袖をつけて長袖Tシャツにすればいいじゃん」とか思ったりしている。おい、それでも袖の製図は必要なんだぞ。できるのか。

 たまに仕事でものすごく自信喪失してしまうことがあるけれど、冷ややかに「嘘くせえな」と思っている自分は常にいる。これもなんでなのかはわからないのだが。
 ではノースリーブのサイズ調整ができないと思っている自分に対してはどうかというと、とりあえず「嘘くせえな」というのは聞こえてこない。ただただ、「無理じゃね」と思っている。

 そもそも、長続きしたことのない編み物を再開して1年経つか経たないかである。かなりの年数をおいて棒針でものを編んだのは、昨年1月の終わり頃。靴下は8月くらいに初めて編み始めたし、着るものを編むなんていう人生初の取り組みは昨年12月。
 こんな状態でけっこうな分量を調整したいとか、無謀でしかない。

 といっても結局、編みたいと思ってしまったんだからしょうがないよな、とも思う。要は型紙に合わせて布を切る要領で目を増減すりゃいいじゃんとか、難しいことだとわかっているのに発想は雑。どうせ上にシャツ着るわけだし、とかなんとか。
 それでいてきちんとしたものを編みたいという気持ちだけはあって、じゃあその雑でしかない浅薄な計画をどうにかしろよと思いつつも、どうにかなるんじゃねえの、とか……

 と、ひととおりぐだぐだと考え込んで、まあ仕方ないかで始めてしまうのはどうにかならないものか。
 「一応それなりに考えたし」という言い訳が必要なんだろうか。まあ、適当に始めて失敗したら自分の考えのなさに大いに腹が立つので、内容はどうであれ、それなりに逡巡して迷いにケリをつけないと動けないっていうことなんだろう。

 でもこいつは悩むことなくあっさり17年放置してたわけで。
 なんか、17年も関心のないものを持ち続けていたっていうのは腹が立つな。やってられるかこんなもんとキレなかったのはある意味では良かったわけだが、17年もの間のどこかでちょっと編もうかなくらいに思ってもよかったんじゃないか。あるいはもういいやとなって処分するとか。

 釈然としないが、とにかく今もこの毛糸はまだ手元にあって、ようやく編む気が起きたのだから、ノースリーブのサイズ調整に悩みつつ編み進めていかなければと思う。

 だけど、他の毛糸も同じようなことになるんじゃないかと不意に思ってしまった。
 ここ1年半くらいは編み物に関心が向いているが、これが急にどうでもよくなってしまったら、どうすればいいんだろう。17年放置するのか。本は17年後に読み返すと思えるのだが(36年前に買った本は今でもたまに読むから)、毛糸はどうだろう。

 それもこれも、根本的に「編み物やるとか嘘くせえな」という気持ちが消えないのかもしれない。自分が編み物をやっていることが未だに冗談きついなと思う。飽きっぽくて根気もなくて、という不向きの要素しかないのになんでやっているんだろう。ほんと嘘くせえな。