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本は特別

 題名の通り、本というものはわたしにとって特別な存在なのだな、と痛感した。どれだけ増えてもちっとも気にならない。そのうえ、自分の趣味嗜好に合う本を嗅ぎ分ける能力に長けているので、よほどのことがなければ減らない。
 実際、「もう処分してもいいや」と思えるものを本棚から探してもだいたい見つからない。もし仮に見つかって処分しても、たいてい何年後かに買い直すことになった。だからもう「本は減らないもの」という位置づけになっている。最後に読んだのが10年前だろうと20年前だろうと、あるとき急に開いて没頭するものなのだ。それが本というもの。
 こんな妙な存在は本だけである。

 なんでこんなことを書いたかというと、これまで目を逸らしてきたソックヤーンと向き合ったからである。
 なんでこんなに増えたのか。どこから出たんだその金は、と思ったら、そういえば最近はむかし買った本を読み返すことが多かったから新しい本がそれほど増えていないんだった。音楽の趣味も古いところで止まっているのでレコードやCDは増えなくなったし。……2〜3年くらい前は中古の出物や再発や編集盤にけっこうつぎ込んだけど。

 ともあれ、昨年から日常的に編み物をするようになって2年もしないうちになんでこんなことになっているのか。
 「きれいだな」とかそういう軽い気持ちで買うことを繰り返したからだな。

 これをぜんぶ靴下に仕立てたら、かなりの量の靴下になる。既製品を買う必要もない。
 と思うのだが、たとえこれが向こう30年分の靴下になるとしても、実際に靴下になるのはいつだろう。それまでこの毛糸を保管しておくというのがどうも納得できない。編みたいものは靴下だけではないのだ。いったい何年かかるのか。それまでこれをすべて保管しておかねばならないのか。

 一冊の本は何度でも読み返しては楽しんだり考えたりすることができるが、毛糸はそうではない。わたしの場合においては毛糸は食材のようなもので、編んで何かに仕立て上げる材料なのだ。編んでほどいてまた編むというものではない。
 もちろんソックヤーンは靴下を編むために買った。が、「この靴下を編む」と決めて買ったわけではなくて、ぼんやりと靴下を編むという考えしかなかった。だからこんなひどい事態になったのだ。
 腐らないだけ食材よりもましだが、どんなに長いこと放ったらかしにしても処分するきっかけが生じないという意味では始末が悪い。

 段染めであることも困りもので、単色であれば着るものを編むなど他の用途を考えやすいが、こういう毛糸で編んだ服や小物を着たり身に着けたりしたいとは思わないため、靴下以外の用途がなかなか思いつかない。

 面倒なのは、こういったことは自分で考えない限り納得がいかないということだ。ネットで検索すれば似たような問題の解決策が見つかるかもしれないが、それは他人の解決策であって自分の解決策ではない。
 要するに、他人が「こういうものを編めばいい」と思いついたものが、自分にとっては「そんなもん必要ない」である確率がわたしの場合は高いのだ。
 それは編み物の本や雑誌を見て「こんなもん着たい奴いるのか」と思ってしまうことと似たような理由なのだろう。つまり、編み物やニット製品に慣れ親しんだ人と、そういうものに縁遠い人生を送ってきた自分とでは、根本的なところでいろいろ噛み合わないということだ。

 せめて「毛糸はいくらあってもかまわない」という境地に達していれば、こんなに悩むこともなかっただろう。が、最近の自分の行動を考えると、どうもそれは永遠に不可能ではないかと思う。どれだけ編み物が日常的になろうとも、本とは違う。読書は本能だが編み物はそうじゃない。
 どうしたもんかな、と考えながらとりあえず靴下を編んでいくしかないか。