棒針編みとかぎ針編みの著しい落差は自分のことながら興味深い。どうしてこうなった。
かぎ針編みは難しくない。実際はそんなわけはないのだろうが、「難しいな」と思う前に解答や解決策に到達するので「難しさを感じる余地がなかった」と云うべきか。
少なくともこれは僥倖であることには間違いない。棒針編みでどれだけ編み物本にキレ続けようとも、かぎ針編みはそのはるか手前でなんとかなるのだ。初心者の段階でそこそこスムーズに進み(記憶がないほど昔のことなので推測)、それなりに慣れた頃に困難が起きても、既に適当になんとかできるだけの勘どころは掴めているので問題にならず、その結果として「難しいって思ったことないな」という現在がある。
かぎ針編みは本にだいたい記号図が載っているので、それがゆえに簡易編み図をなんだこれはと憤る機会もなかったのだろう。というか、「何段編むか書いてあるやつ」くらいの認識だったように思う。
母の本棚から拝借したままのかぎ針編みの本(1999年刊)を改めて読んでみると、棒針編みの本と同様に簡易編み図が載っている。
……え、かぎ針編みにも簡易編み図あんの?と正直びっくりした。今まで気がつかなかった。ほんとに。この本はちょいちょい開いて眺めていたというのに。
棒針編みは簡易編み図だけだから意味わかんねえよこんなのとキレるわけだが、かぎ針編みの本では記号図という補足説明があるがゆえにキレずに済んだ、ということか。つまり、わたしにとっては「必要な説明がされている」と解釈できる内容だったわけだ。
ちなみにこの本の出版元は雄鶏社。かつて内容の不足っぷりにキレて処分した棒針編みの基礎本2冊のうちの1冊と同じ出版社である。こうなると、「なんでかぎ針編みでは必要な説明ができるのに棒針だけでそれができないんだ」と思えてくる。
(ただしこの本、作り目やくさり編みの編み方、編み図記号の意味など基礎事項の説明ページは一切ない。必要に応じてパプコーン編みなどの編み方が余白に載っているだけだ。ということは、これは初心者向きの本ではないということか?)
たとえかぎ針編みであっても、着るものを編もうとしていたら違っただろうか。
この本では袖ぐりの減らし目なども記号図が掲載されているから、たぶん昔のわたしでも困ることはなかったのではと思う。いずれの記号図も作品全体の図解ではなく部分しか載っていないのだが、省略されている部分をどうするのか悩むことは起きにくいように思える。
必要最低限の図解で不足はないという、そうだよこういう感じであって欲しいんだよ編み物の本は。
問題が起きるとすれば、袖ぐりや襟ぐりの拾い目だろうか。もしかすると、実際にある数よりも少なく拾うという指示に困惑し、自分が編み間違えたと誤解するかもしれない。が、そうなっても最後は「まあこんな感じでいいや」と2目一度を駆使して帳尻を合わせるような気がする。なぜなら、かぎ針編みだから。
理屈を理解することなく体感だけでやってきたからこそ、かぎ針編みは理屈はわからなくてもどうにかできるならそうすればいい、という姿勢になるのかもしれない。それで実際どうにかなってしまうので、理屈を学ぶ機会もない。
そのくせ棒針編みは理解することに意地になるのは、体感で覚える期間がかぎ針編みの場合よりもずっと少なかったせいで素地もろくにできず、ゆえに「学習」というかたちで取り組むことしかできないのかもしれない。この方法で一応、少しずつだができることは増えているし、多少なりとも応用みたいなことやごまかすこともできなくはない。だが、できることが少ないので「これでいいや」で済ませられる場面も少ない。なんだか言語とひどく似ているな。
そんなに編み物をやってきたわけでもないのにかぎ針編みで困らないのはなぜだろう、という疑問はまだ残るが、ともあれ今になってようやく「難しい」と痛感する事態が起きた。
ただし、その難しさの原因は編み図でも技法でもなく、毛糸の問題である。
このごちゃっとした物体は、こういう毛糸を編んだ結果である。
まあ、毛糸を見た時点で「どう編むんだこれ」と思った。小さなボンテンが邪魔になるのは見ただけでわかる。いったん目を広げてくぐらせてまた目を締めるのか?など、どう編み進めていくべきなのか正解がわからない。わからないので、もちろん適当にやっている。だからボンテンが地の糸で緊縛されていたり、糸を引き抜いたあとの目の裏側にボンテンが滞留したりしている。
なかなか悲惨な状況だ。でもまだ数段しか編んでいない現時点で、早くも開き直りつつある。というかもう開き直った。
ボンテンのおかげで目の大きさは揃わないし、そもそもこの細さを6/0号で編むのはどうなのかとも思う。しかしこれはこういうもんなのだろう。未だにわけのわからない編み物の世界ではボンテンがくっついていれば地の糸の細さは見なかったことになって何か不可思議な理屈で「この糸は6/0号推奨」という結論になるのだ。プログラム言語の構文と同じで「並びはこうでもよくね」と思っても、門外漢にはわからない根拠にもとづく厳然たるルールに従わなければならないのだ。
基礎から応用まできちんと習得したかぎ針編みのプロならこんなけったいな毛糸でも目の大きさを揃えられるのかもしれないが、わたしがこの作品に求めているのは「夢のようにきれいなもの」である。目が揃っていようとなかろうと、色とりどりのボンテンがいっぱいついてふわふわきらきらしていればいい。しかもこれは黒い服のうえに羽織る。細くて黒い地糸の乱れっぷりなどたぶん自分でも判別できない。
……もしこの毛糸を棒針で編むとなれば、表側にボンテンを出せるよう試行錯誤しただろうな。目が揃わないのも気になってしまい、解決策探しに躍起になったはずだ。
なのにかぎ針編みだと、まあこんな感じでいいかなとか、これでいいだろという落とし所がわりと速やかに出てくるのはどういうわけだ。
もちろん、本に載っている作品を実際に手にとって目がどうなっているのか見てみたいとは思う。どうすればこんな整然と目が揃うのかと疑問を抱きもするだろう。
でも、それはそれというか、くさり編みの大きさが2cmだったり5mmだったりというレベルのひどさでなければ不満はない。もっとうまく編みたいと思うけれど、100段編み終えるまでに多少うまくコントロールできるようになっていればいいなという程度。
向上心がないわけではないのだが。
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