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実家で宝探し

 わたしの母親は手芸を熱心にやっていたわけではないという。それでアフガン針を持っているのが不思議なのだが「当時は流行していたから」だという。まあそれは納得だ。
 でもそれ以前に、なんで編み針がこんなにたくさんあるのか、と受け継いだものを眺めながら思う。いや編み物に限った話ではない。洋裁絡みだとルレットも、使い込んだチャコもある。

 熱心ではなかったと口にするのは、叔母(母の妹)が働きながら洋裁を習いに行ったり、叔母(父の姉)が小さなブティックを構えていたり、という周囲の状況と比して「大してやっていない」と認識しているのではないだろうか。

 あとは「作るのが当たり前の時代だった」というのも関係しているかもしれない。実際、父は何かの折りに「お母さんは昔はなんでも作っていた」と云っていたし、鏡台用の椅子のカバーは縁がフリルのように編まれた手編みのものだった。よくこんなの編めるなというくらい均等かつきれいにしっかり波打ったフリルなのだが、「別になんでもないのよ」だと。いや、目の増減でコントロールしているんだろうけどあそこまでうまく編める自信ないぞ。
 子供の頃は妹と色違いの手作りのワンピースを着ていた記憶もある。まあ、当時(昭和50年代)は珍しくなかったかもしれないが。

 でもめんどくさくね、作るの。

 時間のかかる編み物や手縫いのものは当然として、ミシンを使った洋裁であっても、型紙選んで、糸と布買って、型紙に合わせて切って、ミシンの糸調子を合わせて縫う。
 手縫いよりは早くできるだろうが、昔のミシンってくそめんどくさかったじゃん。あれこそ「縫うまでが大変」の典型だった記憶だ。
 それに母は洋裁を習っていないのだから、今わたしが編み物で「編むまでが大変」であるように、いろいろな試行錯誤にも時間がかかっていたのではないだろうか。

 まあ、3人の子供のものをすべて既製品にできるような家計ではなかったのはわかっているので、四の五の云わずに作るしかないか。業務スーパーについて「あなたたちが子供の頃にこういうお店があれば」って云ってたもんな。西松屋の広告もびっくりするような内容らしい。わたしは「子供の服が安い店」程度にしか知らないが、なんというか、信じられないレベルの安さらしい。

 とにかくまあ、あれこれ自分で作るのが当たり前の時代で、しかも日本が徐々に豊かになっていく時代を経験しているだけに、実家にはいろいろあれこれ手芸用品がある。これまで手芸に関心がなかったのでろくに知らなかったけれど、ちょっと探せば今ではなかなか見つからないようなものがあるのだ。

 その一例が、先日もらってきたこれ。
 右上のピンは目を休めておくやつ。だいぶ昔のものだろうにピカピカである。この手のピンはひとつも持っていないので、ついもらってしまった。

 出色は「棒針ゲージ」と明記されている道具だ。手芸屋に行けば同じ用途のものが売っているけれど、ゲージをはかる定規というのはなぜあんなに邪魔な大きさなのか。10cmの正方形がくり抜かれたプラスチックの枠なんて、まあ薄いのだろうがどこにしまうか迷う。他の用具が小振りなだけに。裁縫道具のようにそれなりの大きさの箱にでもまとめていればそこに入れられるが、わたしの場合はそういった箱がない。

 だがこの「棒針ゲージ」は定規の一部が可動式なので、使わないときはペンケースに入れておける。もちろんゲージなんて普通の定規ではかれば済むのだが、こういう便利ツールはありがたい。

 それから棒針のサイズをはかる穴は、もし号数が消えてしまったときに便利であるのは当然として、号数と併せてミリ数も明記されているのが便利だ。
 というのも、海外の編み図はミリ数表記なので、棒針の太さを日本の号数で把握しているわたしは自分の手持ちの棒針にあるかすぐにはわからない。対応表を確認すれば済むけれど、まあ、それが地味にめんどくさい。
 でもこれを見ればすぐわかる。3.3mmと云われても手持ちにあるかわからないが、それが4号だとわかれば、4号ならうちにあるなとすぐわかる。

 と書いていたら、要は「ものをきちんと整理できていない自分が悪いんだろ」と気がついた。裁縫道具のように、編み物用具をひとまとめに入れておけるものがあれば、でかいゲージ用定規も号数対応表も入れておけるはずだし、必要なときにすぐ取り出せるだろう。
 現に裁縫に関しては「基本の道具はこの缶、30cm定規は棚のあのへん、布と資材は押し入れのあのへん」で済んでいる。
 なのに編み物は基本の道具だけですでに「テーブル周辺のどこかと机の近くと棚のあのへんとあっち」とかなり分散している状態である。それより何より、テーブル周辺の「どこか」の時点でいろいろ絶望的だ。まあ小さなテーブルだからすぐ見つかるけどよ、効率的とは云いがたいだろ。

 なんとかしないとなあ……手芸ってたいていこんなもんかもしれないが、「だからいいや」と結論づけたくはない。よそはよそ、うちはうちだ。子供の頃にこういうことを云われた記憶がないので、こういう性格は生来のものなんだろう。右へならえをしときゃ楽な場面もあるんだがな……まあいいや。

 ところで実家にはもうひとつ気になるものが残っている。「魔法の一本針」だ。まじか。これうちにあったんだ。編み物に関心がわいてからその存在を知り、一度やってみたいなと思っていたやつである。「ちょっと試しに」であれこれ増やしてしまうのもどうかと思って買わずにいたが、買わずに済むじゃん。
 こんなものまで持っていながら「熱心ではなかった」って、どんだけ昔は作るのが当たり前だったんだろう。当たり前だからこそ道具も充実するという好循環がうらやましい。