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読むのが苦痛

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 壺だの茶碗だのと云われてしまっているこの靴下、今のところこんなである。
 初めて挑戦するタイプのかかとは……わかるような、わからないような。けっこう適当。編みながら「足りなかったらどこで増やそう」「多かったらどっかで2目一度だ」などと諦め半分で考えている始末。結果的に目数は合っていたが。でもこの編み方、穴が開くような気がする。

 さて、仕事に追われて平日の記憶すら残っていない有り様だが、通勤電車でこの本を読み進めていた。

パティさんの編み物知恵袋 | 書籍 | 朝日出版社

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 そう、春までに読み終わればいいなと書いたが、最近は夏のような天気の日もあって「やべえ、春が終わる」と焦った次第。

 まずは残念なことに、ヴァージニア・ウルフの言葉の引用元の記載は最後までなし。奥付まで目を通したがどこにもなし。これがもう気になって気になってしょうがない。ヴァージニア・ウルフの著作など『灯台へ』しか読んだことがないという程度の関心しかないのに、この言葉の引用元はどこだと検索しまくった。もちろん見つからず、図書館で書簡集や日記を探した方がよさそうだと推測できた程度のことしか得られなかった。
 まずは検索で出てきた、編み物についての論文(PDFへのリンク)を読んでからだな……それで駄目なら図書館だ。久しく図書館へ行っていないので登録のし直しをしよう、そしてセリーヌの『夜の果てへの旅』を借りよう、と思ったのにな。セリーヌ読みたいけど引用元があるのかないのか気になる。論文で引用元がわかればいいのだが。

 で、この本の主題については……まあ、なんというか、なるほどなと思うことは確かにある。よくわからない部分は、まだ編み物経験が少ないがためにわからないのだと思う。しかし読み進めるにつれて、疑問と違和感の奔流に飲み込まれた。

 疑問というのは、実際にセーターなどを編むときの工夫が紹介されているところで「でも編み方できちんと説明されているんじゃないのかな」と思ったことだ。

 こうすれば穴が開きません、とか、カーブがなだらかになります、みたいなことが書かれているのだが、いちいち書く必要があるのだろうか。
 穴が開かないように・カーブがなだらかになるように、編み図なり説明なりに「ここではこの減らし目をする」といったような注記があるのではないか。中上級者向けの説明が少ない編み図であったとしても、そのレベルの人であれば初心者の時代に既に知っていることなのではなかろうか。

 平編みで編んだゴム編み部分を輪につなぐときの工夫も、自分のセーターを確認してみたら本にあるような段差はなかったので、アメリカでは段差ができるようなつなぎ方しか知られていないのだろうとかと疑問に思った。
 ちなみに自分のセーターでとった方法は、昭和56年の付録冊子に載っていた方法である。専門書とか基礎本を謳った立派なものではなく、付録である。語弊を恐れずに云えば「たかが付録程度」で紹介されていたやり方。
 その通りにやって段差がないのだから(だってさ、写真を見てわかる通り、編み地の端のゴム編みの目をきちんと編めないような初心者が段差なしでつないでいるんだよ)、国による一般的な技法の違いなのではと思い、けれども「日本で一般的に知られている方法では段差は生じません」という訳注がないのはなぜなんだろう(この本ではところどころに、日本での一般的な技法との違いの注記がある)。

 それに加えて違和感である。これはもう前回の投稿でも書いた通り、国民性?思想?の違いによる。
 「原因はあなたではなく、編み目のせい!」とか「(編み地に対して)ボスが誰であるか教えてやりましょう!」とか、毛糸に対して何か恨みでもあるのかという勢いである。これがどうにも落ち着かない。
 かつてのアメリカが「世界の警察」を気取って各地の紛争に口を出したり扇動したり、民族の特性などを無視して「民主主義は正義」という価値観を押し付けまくった様が頭をよぎる。そういう姿をニュースや新聞で見聞きしていたので、中学生くらいの頃には既に「アメリカ人って威張ってなきゃ死ぬのか」くらいに思っていた。

 大袈裟に捉えすぎていると思われるのは承知だ。けれども文学に限らず、時代や国民性など書き手の在る環境が書くものに影を落とすのは当たり前の話で、文学研究などはそういった面からも考えないとろくなものが書けない。
 だから、(少なくともわたしの場合は)この本の編み物をねじ伏せるかのような動機や姿勢が気になるし、気に入らない。もっとこうのんびりとというか、単に「こうするともっときれいになるよ!」くらいの書き方ができないものだろうか。この穴をどうにかして埋めてやる、ではなく、こうすれば穴が目立ちません、でいいじゃないか。編み目に勝つ必要などない。

 西洋には勝たなければならない、成功しなければならない、幸福にならなければならない、という価値観がある。
 という意味のことを目にした記憶があるが、あれはイギリスのバンドのインタビューだったかな……。90年代の話なので現代もそうなのかは不明だが、著者がそんな価値観の時代に育ったのであれば、編み目を征服したがるのは当然なのかもしれない。完全に自分の支配下においてこちらの思うままに編みたいという欲望である。
 もちろん、編み物においてそう感じるのは当たり前である。ただそれは「自分の気に入るようにきれいに編みたい」というレベルにとどまるのが一般的なように感じる。

 「2目一度の編み目を目立たないようにしてやった!」と「2目一度が目立たないようにできた」。前者には「敗者」としての編み目が存在するような気がして、なんでいちいち何かを負けさせなければならないのか。そこがこの本のいちばん気に入らないところだ。
 構造を理解することが自由に編むこと・間違えても容易に修正できることにつながる、という著者の考えには同意する。まさにその通りで、よほど勘がよくなければ仕組みの理解なしに自由自在に編むのは難しい。そこは同意だ。でも制圧する必要などない。

 編み地や編み目を倒すべき敵に見立てて解説していくのがアメリカ流、なのだろうか。他国の本の書き方などどうでもよいが(こちらが口出しすることじゃない)、それがために読みにくくなるのはきついな。たぶんこの本はもう二度と開かない気がする。いや、我慢して必要なことだけノートにまとめた方がいいような気もする。でもきついな。