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腹を立てて気合いを入れる

 ようやく、中細毛糸で108目104段の前身頃とうしろ身頃の袖ぐり手前のところまでを編み終えた。
 セーターはしましまだったので、縞模様を目印にして合わせてみれば前後の手加減が違っていないかを確認しやすかったけれど、今回は無地なのでよくわからない。重ねてみても、編み地を適切に平たくする加減がわからないので判断がつかない。たぶん同じ大きさになっていると思うが自信がない。

 あ、こないだの靴下みたいに端を持ってぶら下げてみればいいのか。

 しかしこれを書いている現在、すでに片方の袖ぐり部分に取りかかってしまっている。 せっかく見つけた方法をきれいさっぱり忘れてしまうなんて、自分の記憶力は急激に衰えてきているのだろうか。それとも、多少の大きさの違いはまあ別にいいやと考えているから思い出しもしなかっただけなのか。

 身頃の大きさに関しては後者の可能性が高いが、記憶力が落ちてきている可能性は否めない。より正確にいうと、記憶したことを適切に取り出す能力が鈍ってきていると思う。
 というのも、袖ぐりの減らし目。
 袖ぐりの減らし目は、最初の段(1段目と2段目)のときとそれ以降の段とではやり方を変えるらしい。ということを、先週の投稿に書いた。まあ、そのときも「最終的にとじて隠れる部分だし」みたいなことを書いたのだが、そう書きつつも、次はきちんとその通りにやるもつもりでいた。

 なのに今回、袖ぐりを編み始める前にじっくり編み図を見返していたというのに、3段目を編み始めるまでそのことを忘れていた。
 どういう具合に減らしていくのかとか、減らした目につける糸じるしも用意して(今回の毛糸には太すぎたので別のものにしたけれど)図をじっくり見て、伏せ目のやり方も再確認したというのに、「なんか気にかかっているような気がするけれどなんだろう」というのを深く考えずに編み進めたらこうだよ。

 結局、今回も「最終的にとじて見えなくなるし」と結論づけて編み直しはしなかったけれど、脳の接続が悪いというか、脳内が乱雑になっているというか、とにかく必要なときに必要なことをすぐに思い出せないことに腹が立つ。

 自分で「年齢的にしょうがないか」と口にできるようであれば腹は立たないが、ため息をつくより先に腹を立てている時点でますます腹が立つ。
 しかたがない、と思うことであればそれを前向きに捉えるように思考が働くけれど(記憶力が衰えた自分を嘆く方向には進まない仕様)、腹が立つということは、まだ「できるはずなのに何故できない」と感じる根拠が心のどこかにあるのだと思う。もしくは、できるはずのことをできなくなってしまうほどに怠惰であると自覚しているから、まだ腹を立てることができる、とか。

 実際、自分に気力が足りていないのは自覚しているしな……本質的にはめんどくさがりで怠惰な人間なので、自分を甘やかすと一気に駄目になっていくのはわかっている。だからこういう小さなことでもきちんと腹を立てて自分が腑抜けていることをきちんと認識しなければ、編み物どころか生活自体が全面的に悪化するしな。気をつけよう。というか、もっと気合い入れろ、自分。