一昨日から編み始めた靴下の昼すぎの状況。
以前うまくいかなかった「富士山かかと」という編み方をするキットの別デザインに挑戦。
かかとがうまく編めなかったのは端の拾い目がまずかったから、と結論づけたので、今回はあとで拾う目に編みながら糸印をつけて対策を講じた。
でも駄目だ……
書いてある通りに編んでこれか……絶望的に向いていないんだな、今のわたしには。
2目一度とかけ目を組み合わせた模様編みをしている靴下なので、この穴もそういうデザインで、という言い訳を考えてみた。即座に却下。ふざけるな。ひどいだろこれ。裏から適当にかがって埋めるのすら嫌だと思える。見れば見るほどうんざりするのでほどいた。
かなりの手戻りだが、うんざりし続けるよりマシだ。本能的に嫌だと感じるものは小細工などせずにほどいた方がすっきりする。
うまく編めたらどういう状態になるんだろう、と見本写真をよく見てみることにした。
あー……
それなりにでかい穴。手本でこれか。穴が空く仕様かよ。
では、かかとはどうだ。
あー……
靴下の内側に白い何かを入れてごまかしているのかな、と邪推してしまうくらいの目立つ穴。
なんだよ。細かいことは気にすんなっていう仕様の靴下だったのか。気になるからこの編み方もうやめよう。
ここから編み物とは関係のない与太話。
先週ふと本を手に取ったら編み物はそっちのけ。2冊目の本の内容がちょっとどうかなと思う部分があちこちにあって(しかもいちばん厚い)、ちょいちょい休みを入れながらも読み続けていたのだが、一昨日くらいからもうちょっと間を空けたい感じになってきた。
読んでいるのはジム・モリソンの評伝で、1冊目も違和感があったがまあ落ち着いて読めた。しかし2冊目、「決定版評伝」と銘打ってはいるがなんだかな。心理学的アプローチだか精神分析の視点だかを取り入れて、というがそれが明らかに無駄。要するに「本人不在の心理分析」がなんの役に立つのかということだ。そういうものは普通は憶測と呼ばれる。
まあ、評伝なんてそんなもんだよな、と思う。客観的事実のほかに「当時を知る人の話」も折り込まれるのが常で、それが混乱を招く一因になる。だから妙な人物像ができあがってしまうわけで、ジム・モリソンなんかは映画まで作られてしまってとにかく気の毒だ。
オリバー・ストーンの映画はレイ・マンザレクがめちゃくちゃ怒ったというが、さっき再読し始めたばかりの3冊目の評伝を読んだあとならそれ気持ちがよくわかる。それは友人などの証言を集めたもので、内容は伝説的ロックスター像とはまったく結びつかないものだ。最初に読み終えたとき、「友達をあんな風(=映画)に描かれちゃレイが激怒するのも当然だよな」と思った。
あれは伝記映画というより、伝説の切り張りなのだろう。実際、一般的なジム・モリソンのイメージにそぐった内容だった。「ジム・モリソンをモチーフにしたロックスターの映画」であれば娯楽作品として楽しめたかもしれない。
評伝を読んで何かがわかるわけではない、と思う。証言もあくまでも「その人の抱いた印象」であって、印象というものは、より強いものが残る。良いことをしても、悪いことをしたインパクトの方が強ければ「そういう人」という印象になるし、他人に話すのもそういったことだ。だから、そういう一面もあった、と捉えなければ虚構に引きずられかねない。
注意深く読むことで何がわかるのかといえば、ジム・モリソンはごく普通の人間だということくらいだろうか。抱える問題の大小は異なれど、勢いでバカをやったり小さなことで悩んだり夢を抱いたり。あとは、当時のインタビュー記事の引用や、真偽はどうあれおもしろい話もあったりするので、それを読む楽しみ方もある。
ひとつ残念なのは、詩人としての評伝が(少なくとも日本語訳は)見当たらないことだ。生きている間はほとんど「ドアーズのメンバー」として注目されていたので仕方ないのだろうが、詩について語ったインタビューや詩人としての交流があった人々の話などをもとに編めるのではないかと思う。文学専攻の大学生が書いた論文ならありそうだが、当時を知る人の話となると難しいかもしれない。ジム・モリソンが死んで既に50年以上が経ち、交流があった人たちは生きていても80代くらい。もう間に合わないか……
コメントを投稿
別ページに移動します