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欲望の赴くままに編む

 昨日は久し振りにサンキに行ってきたわけだが、毛糸以外にもうひとつ目当てがあった。編み針である。
 棒針15号を2セット。これでブランケットを編むわけではなく、他のもの用である。
 編み図の指示には1セットとあるのに購入したのがなんで2セットかというと、慣れない棒針で慣れないタイプの毛糸で輪を三角で編むのが不安だったから。
 いざ編んでみたら4本針で充分に編めるかもしれないけれど、まあ、5本針じゃないと難しいやつを編むことがあるかもしれないし、かなり未来に5本針が必要になるときが来ても物価が上がりすぎておいそれと買えなくなっているかもしれないし。

 せっかく輪針用のケーブルが2本あるのだから、付け替え輪針の15号相当を買って輪針2本で編むことも考えた。でも「編み図が棒針を指定しているんだから棒針で編めるはずだ」と、ちょっとむきになってしまった。
 棒針の間の溝ができないように頑張るつもりということだ。しかも、1段ごとに1目ずつずらしていくという工夫なしに編めるように。ずらしていけば確かに溝は回避できるが、めんどくさい。だから、面倒なことをせずに済ませるには道具に頼るか腕を磨くかで、こういう選択肢になるとわたしはだいたい後者をとるのが常。道具に頼れば楽なのはわかるのだが、裏を返せば「道具がないとできない」ということである。それを考えると、道具がなくてもできるようにすればいいんじゃね、という結論になる。4本針2セット買ったけどな。

 ともかく、サンキでは目当て以外の毛糸がいろいろで大変に楽しかった。しかし目移りして他のものを衝動買い、ということはなし。リッチモアの毛糸が格安になっているのを見つけたりもしたのだが、なんせまだわたしは目的がないと毛糸を買うことができない。少しくらい買ってしまってもよさそうな値段だったけれど、それで何が編めるのか・何か編めるとしてもどのくらい必要なのか、といったことが見当もつかないのだ。

 かといって、いつか編みたいと思うものの毛糸を必要分だけ買っておく、ということもできない。そうやって都合17年寝かせた代物があったことに懲りたわけではなくて(いや懲りようぜ)、いま編みたくても未来がどうなるかわからないからだ。
 きれいだからといってつい買ってしまったソックヤーンが積もり積もって山ほどあるが(これは懲りた)、編み物に飽きたらこいつらどうしようと密かにびくびくしている。ソックヤーンを買うのを控えるほどにびくびくしている。

 なので、「いつまでにこれを編む」と決めた分しか毛糸を買えないのが現状だ。しかもそこには自分の現在の技量も考慮に入れなければならないので、先月の変なラベルの毛糸のキットは久し振りの衝動買い。しかも今の自分に編めるのか、という見込みを度外視して購入。そうだよ、こいつ冬までに編まないとだよ。思い出して良かった。

 しかしこの数日、仕事で頭がパンパンになって朦朧としながら思っていたのは「好きなことやらずに死ねるか」ということだった。
 さんざん好き勝手に生きてきてまだそれを云うか、と我ながら呆れるが、好き勝手してきっかり50年生きてこられたんだからもうこれでいいじゃんと思うし、今更おとなしくしたら却ってひどいことになるだろうと思えてきた。真面目な社会人をやろうと努力したら精神的に追い込まれて病院のお世話になったりしたんだし、もうこれは思うがままに生きていかないと不健康になる。小さなことから好きなようにやっていかないと駄目だ自分は。

 そんなわけで買ったのが15号の棒針というわけだ。いつ着るんだこれというものを編むために買った。既に指定の毛糸の一部は廃盤で、ぎりぎり在庫処分に間に合ったというところ。しかもまだ他に2作品に目をつけていて、そのうちひとつは指定の毛糸がほとんど廃盤。だから似たような色でうまい具合に選ばなければならない。
 ちょっと前の自分ならば手を出すのを躊躇していただろう。実際、本で目にしたときは惹かれつつも「でもいつ着るんだこれ」と思った。が、いつ着たっていいだろう。シャツの下とはいえ真夏にウール100%のノースリーブを着ている時点でいつもクソもない。着たいときに着ればいいし、編みたいなら編めばいい。ただそれだけ。

 そもそも人生最初の着るものが、簡易編み図でとじはぎありのしましまセーターだったもんな……力技で解読して編めたんだからなんとかなるだろう。なるはず。